世界の将棋史 21世紀の知見

初度投稿 06/04/2008 - 08:08
改訂 2008/06/05夕 

久しぶりに新しいトピックを立てさせて頂きます。2006年の秋から初冬に掛けて駒音掲示板のほうに将棋の起源をめぐって、当時最も新しかった英語論文のいくつかを紹介しました。それが切っ掛けでいろいろ充実した議論や楽しい想像もできました。しかしながら相変わらずチャトランガを巡って昔の誤った知識に基づく棋士の講演も見られるし、最近の駒音掲示板でも、過去の充実していた議論を知ってか知らずか、それが無批判に引用されています。

幸いその部分は今日現在のところはまだ、同掲示板の延長掲示板の過去ログに今回の騒ぎで消えることなくほぼ手付かずで残っているようなので、保存と将棋史再訪を兼ねて、この新しい掲示板で取り上げて行ければと思います。駒音掲示板は上述のいくつかの状況を見ると、このテーマの議論は事実上できなくなったと考えます。

つぎの方針で進めたいと思っております。
●著作権の問題が明らかでない(ある程度は自分達が新しい模範的慣行を作らねばならぬ立場である)ので、愚自身は愚文以外は丸写ししない。
●資料の部分と、推理の部分、さらには「遊び」、「空想」の部分は明確に分ける。
●なるべくこの1年余りの更なる進歩を確認する。ただし直接著書を入手することは費用、手間の関係で困難があるので、主にインターネット上の論文による。(愚の分野ならば審査が無いと載らないいわゆる電子雑誌がいくつもあって、単行本はもちろん活字雑誌に劣らず信用できる時代です。)
●愚としては、当面チェスとシャンチーの起源と、それとチャトランガの関係の資料提供から入ります。少なくとも日中ないしアジア友好に関る棋士が誤った知識のまま不用意に日本や中国の国際場面で講演されるのは好ましくない。特に最近の中国人にはこの分野の著名学者も出ていますから、気付かれたら国際問題にもなりかねません。

ちなみに愚自身も中国での国際会議でこの問題に触れたことがあります。自分の論文が中国語に訳されて居るのを見ると、なんだか自分が大層立派な学者になったようで、不思議な気分になります。「漢文」そっくりなもんで!

なお多くの人にとっては日本の将棋の直接の祖先のほうに興味が有ると思います。残念ながら愚自身はこれについては新しい情報は何一つ持っておりません。じつは昨年西安(昔の長安)の博物館への調査行を計画しましたが、外務省の旅券課のミスで出国できないという呆れた事故に遭い果たせませんでした。

投稿者: 歩曼陀羅華 投稿日時: 水, 06/04/2008 - 08:08 categories [ ]

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間に合いましたので一筆

銀様 御指摘感謝

私の要約文にも一箇所端折り過ぎでミスが入ってしまいました。周はいうまでもなく殷の次。(だからこそ周王朝正当化説も一定の説得力が生じうる。)尚書、詩経が殷滅亡(周成立)数世紀後。

今回のキーワードは甲骨文字の「先王の祭祀記録」で、これには膨大な数があるという。それによれば紂=帝辛は先王の祭祀を良くしていたが、「酒池肉林」に通じる甲骨文字記録は一切無い。

その精緻な読み解きには、日本人研究者の功績も大きかったが、中国ではその成果が殆ど顧みられず下火という。

この辺りが、いろいろなことが考えられて、面白いところです。

白川静といえばビッグネームですが、その正統的継承者はどうしているのでしょう。

御教示いただいた宮崎市定の名前はおぼろげながら知っておりましたが、ウィキに次の記載があるのがまた面白いです。

…また研究者以外でも、司馬遼太郎・谷沢永一・向井敏・松本清張・米長邦雄などがの研究を引用している。

甲骨文字、

甲骨文とも。亀の甲羅(腹甲)や牛や鹿の骨(肩胛骨)に刻まれた (wiki)

>甲骨文字の原典をいくら読んでも、、、
そんなもの自体が存在しない。占いのためとされている。

新説、奇説、珍説はいくらでもあるがすぐ消える。
古くは源義経ジンギスカン伝説、新しくは最近のtvでもやっていた秀頼九州薩摩生存説、信長は生きていた、というのもあったか?

>周は殷滅亡後数百年後の王朝。
殷滅亡後直後の王朝であってこれも誤り。

初学から間違いがあるがそんな本を読むより宮崎市定をお勧めする。大体において間違いはない。

新説ではないが源頼朝の死因については諸説ある。調べてみると面白いかも?
しかし殷チュウにせよ結局はタイムマシンでも発明されない限り決定は出来ない。家康は死んでいた、なんてのもあったが切りがない。

甲骨文字と史記

『白川静さんに学ぶ ― 漢字は怖い』(小山鉄郎、共同通信社2007)という本の冒頭でいきなり、将棋にもそのリューボ由来説にも縁がある「王」の字の『設文解字』(紀元百年頃)の説の誤りが指摘されています。

漢字はご存知の通り殷の時代に出来た。『設文解字』はその約千年後に書かれたものだから、その又2千年近く後の現代になって、甲骨文字そのものの出土品も増えて、その科学的研究が進めば、紀元頃のさまざまな解説が「説話」に転落するのは当然のことです。

『甲骨文字に歴史を読む』(落合淳思、ちくま新書2008)は未だ入手できておりませんが、その海部評(毎日新聞8/31)の見出しは、

「殷の紂王の酒池肉林は作り話だった」

司馬遷が史記(銀様が言及しておられる)を書くときに参照したのは周代の『尚書』、『詩経』(ご存知の通り孔子が編んだとされる)だが、現代になって、甲骨文字の原典をいくら読んでも、そんな気配は微塵も無い!

周は殷滅亡後数百年後の王朝。歴史を改竄して、周王朝の正当化をしたと見るべきだというのです。

[お断り]国際委員会出席のためしばらくお休みします。日頃の御愛読に感謝申し上げます。

天童、ペシャワール会、史記

WEBマスター様 コメント有難うございます。

このページは、駒音掲示板で議論していたころ、天童にお小遣いで「無剣」(裏朱)を発注したときに見て居て、インド起源説を無邪気に信じているのは無理からぬこととして、イタリーの人間将棋にも触れていたことで、印象に残っています。

なお大分以前中国人によるサイトも御紹介いただきましたが、その方は香港と大阪に拠点があるようで、内容は、日本の通説であるインド起源説そのものを中国語にしたものですね。

ペシャワール会の伊藤さん(31)という農業青年が、悼ましくも27日にアフガンで殺害されました。ペシャワールは以前書いたようにパキスタン領内。北西の縁に近い。

1947年までパキスタンはインドの一部だったから、仮にヨステンのクシャン説が正しいとなっても、それもインド起源説だと言い張る人が、まだ当分日本の人口の中に居るかもしれません。

昭和30年代でも、たしか中学や高校の先生方は、パンジャブ、カシミールなどはインドの一部であるという認識で教えていたような気がします。カシミール問題で争った第3次印パ戦争は1971だった(ウィキ)。

医学の定説は、メタボ問題のように案外コロコロ変わるし、その医療への反映も素早い。しかし歴史の通説が、見直されることにも、その後社会全般に浸透するまでにも、それぞれ長大な年月が掛かります。

次稿では「史記」の大嘘なるものをご紹介します。(もちろん受け売りです。)

将棋の原形

http://www.yomiuri.co.jp/tabi/domestic/japan/20080428tb01.htm?from=nwla

記事は天童市の紹介ですが、目に止まったのでメモります。

『古代インドで生まれた将棋の原形が世界各地に伝わり、今では数十種類の「将棋」に発展している。』

中国起源説について

銀様 コメント有難うございます。

リー教授の韓信説は、紀元前3世紀末に、中国将棋の原形が出来たというのですね。それは単なる「奇説」か?

そうかもしれませんが、多分読む機会が有ったら信じたくなるほど良くできているだろうと想像します。日本に多数ある邪馬台国論争も、それぞれの専門家が、それぞれの知識と思惑を元に執筆すると、一般読者は、そういうものかなあと思わされてしまう。

ロマンとして、韓信説でなくとも中国説は捨てられないものがあります。

ヨステンのクシャン統合説は、紀元1~2世紀に中国のリューボとインドのレース・ゲームにメソポタミアの天文盤のコンセプトが加わって作られたというもの。このほうが時期を考えると、少なくとも韓信説よりははるかに無理が少ないことは否めません。

それで私としては、リューボが、チェスの発明に中心的に貢献したのであれば、中国起源説としても十分だろうと思っているわけです。

すると、リューボに中央駒(梟)が入ったのは何時か。それに韓信は絡んでいないかということが興味ある問題になって来ます。

ここらは、恐らくまだはっきりしていないところです。韓信にしても、梟(将ともいう)と6個の歩くらいなら使ってみたかもしれませんし。

5W1H

論語を読んだことがおありか知らぬが多少は知っている筈。すべて「子曰く」からはじまる。

数百年経ってから昔の人の言葉を覚えているはずもなくそれを直接聞いた弟子の編纂というのが普通の常識。
例えば今家康はこう言った、吉宗はこう言った、などという本が書ける筈もなく全て伝聞の伝聞となる。孔子がどこへ行ってどういうことがありこう発言した、などというのはそれを実際に見た人でなければ書けぬ事。これは孫であっても同じ事。どうも近代の学問は古の常識を学ぶことなく仮説を無理に押し通そうとする感じがする。

例えば先の大戦でも学者がこうであった、とあたかも見たように書くのは間違いで戦後生まれの学者ならこうであったと聞いた、、、という記述でなければ嘘になる。歴史は時代が進むにつれて発展する学問ではなく衰退する学問かも知れん、、、

張騫はワシも忘れておった。それが発生とすると秦代は誤り。しかし全財産を運んで利を得る、というのは通行が安全と保障される平和時に限ったことで戦乱時はそのような通商が停止するのは当たり前。わざわざ盗られに、殺されに中国まで行く馬鹿は居ないよ。但し多分じゃが漢代は農本で商業が発達したのは唐代か?という印象はある。シルクロードがあっても細々したものではないか?

但し唐代には色目人としてイラン人が多数存在していた事は歴史的事実。
「葡萄の美酒、瑠璃の杯」(琥珀だったかも?)という詩が残っている。それまで中国に存在しなかったワインとガラス製?のグラスが入って来たことを示しておる。

追記;
またまたうっかりして居ったがカンシンは漢の前の時代で漢になってすぐ殺された。張騫はその約一世紀後つまりカンシンの時代はシルクロード発生以前だったといえる。。。

農本とは農業本位でつまり商業が大きく発展する以前の時代。日本で言うと鎌倉、足利くらいか?大きな会社がない農業だけの田舎の感じ、、、

葡萄美酒夜光杯  
欲飲琵琶馬上催  
酔臥沙場君莫笑  
古来征戦幾人回

ちょい訂正。改めて読むとなかなかの名詩。詩の本意は最後の辺境の守りに来ても故郷に帰ることなく一生を戦場に過ごす運命を嘆く、という説あり。

張騫はバクトリア王国に行った

クシャン王国の中心に当る現アフガニスタン(首都は現パキスタンに数十km入った所)に、その前はギリシャ系のバクトリア王国が有った事は以前書いた。

シルクロード文物展(今年1月)の出品物の中に、敦煌の壁画の模写があり、張騫(ちょうかん)が漢の武帝に見送られて99人の供を連れて出発する(138BCの)情景が描かれている。

http://abc0120.net/words/abc2008010905.html

この使節団の目的は匈奴に圧迫され続けていた漢が、その内紛の情報を得て、月氏(または大月氏。端的に要約するには私の理解が足りない。史記その他に記述がある。)と組んで挟撃しようとしたもの。

張騫は、行きも帰りも匈奴に捕まるし(抑留は十年に及びそこで結婚して子供も出来る)、現在のタジキスタンに居た月氏から挟撃同盟は断られたものの、ともかく武帝に復命できた。帰ってきたときは従者は2人になっていた。

使節としては実らなかったが、中国政権が西域やチベット、インドについて知識を得て、その方面に向かう経営に乗り出したのは、これが切っ掛けであり、やがて西域各国から朝貢されるようになった。

つまり、それより200年も時代が下るカニシカ王朝の頃(後漢)には、中国側がすでに積極的に接触・交流していたものと考えられることになる。

チベット問題も、この時代まで遡って、支配権の正統性を主張しているのかもしれない。

シルクロードは漢代の114BC頃出来た!

シルクロードの年代も識者から疑問を呈されて調べてみると、これまた難しいことが分かった。

秦漢からとする日本語ウィキは信用できぬとしても、ブリタニカON‐LINEは理系ではなかなか買えないし、図書館で見るブリタニカだとちょっと古いかな(今の大学は毎回改訂版を買えるわけではない。一つには予算をより多く持っている理系側は中央図書館には冷たいので、こういうときには自らに返って来る。)と思う。

それで、結局いつものようにまずは英語ウィキから。

張騫(195BC―114BC*)のミッションと開拓によるとする。それに基づいて表題のように「正確な」年度が書かれている。漢代の探検家にして外交官だったこの人物の事績はある程度確かなので、その没年頃には出来たというわけ。

無論それ以前にある程度の交易路として成立していた。

シルクロードの物流の実態は、西安(唐の長安)から地中海までの8000kmを一回で通ることは滅多に無く、各商人(巡礼、僧侶、軍人、遊牧民、都市住民も通った。)は、賑わうオアシス町の市場から市場へと(局所的に)品物を運んでいた。

* http://en.wikipedia.org/wiki/Zhang_Qian (肖像あり)

論語は紀元前5世紀か

銀様のご指摘について、さらに調べました。昔から有っても全然おかしくないが、比較的新しく有力になった気配があるのが、孔子の孫の

子思(紀元前483年?-紀元前402年?)

によるとするもの。

こちらの方が納得し易い。ただし子思にしても孔子(紀元前479年没)に会ったことは無かった。

論語の成立過程については、おそらく将棋史より本格的な研究者が大勢居るはずなので、前漢初期に出現したとする日本語ウィキ(*)との大きな食い違いがなぜ起こっているのかは謎です。♪

* つぎの本を文献として上げている。武内1939、津田(左右吉)1946、金谷1999、宮崎・礪波2000、宮崎(未詳年)[以上岩波]。 狩野2001[ナツメ社]、荒川2007[三恵社]、吉田1984、緑川2007[以上明治書院]

♪ 我々数学系の人間は、それは結局成立や出現の〝定義〟の問題だろうと、大真面目に捉えつつも問題を交してしまうことがよくあります。

論語は紀元前3世紀末とすべきでした

銀様のご指摘を頂いてウィ繰りました。銀様は助六というより碩学とお呼びすべき方だった。

孔子(紀元前551年‐紀元前479年)自身は春秋時代に活躍したわけですが、論語の成立は前漢初期とされるから紀元前208年頃。

それが頭にあって、つい紀元前2世紀初頭とやってしまいましたが、マイナス方向に数えているから、紀元前3世紀末とすべきでした。

紙の発明まで3百年というのは、間違っては居ません。

一方で、論語成立が孔子没後270年というのも、考えてみると不思議です。

駱駝のスピード

※ 銀様 コメント拝聴

とりあえず駱駝について:

餌と水を充分に与えられたラクダは、1日に140kmのペースで3、4日も歩くことができる。運搬用のラクダは、150kgほどの荷物を載せて1日に25~50kmを歩く。

http://big_game.at.infoseek.co.jp/othermam/camel/camel.html より

シルクロードの移動に要する日数については、大外れではなかった。年代的検証は後で。

開会式のテーマ?

一度中国の歴史の教科書を見たが(中学程度だがそう全国民に高度教育を施すとも思えないので殆んどの国民の歴史の全知識に近いものと思われる)全体の3分の一が中共の成立の歴史であり、3分の一が抗日戦争であり、そして後の3分の一が蔡倫の紙の発明などつまり中国が偉大だと世界に誇れるものであり本来の殷周よりはじまる国の興亡などは最後の数頁、それも2-3の国に過ぎなかった。

つまりあの開会式のテーマは発明ではなく中国の歴史の全てであり自慢できるもの全てを表したと考えた方が正しいかもしれない。当然三大発明が西洋ルネッサンスのものという世界の認識を改めさせる意図がある事は間違いない。

中国人は歴史に無知であると同時に故意に教えられていない可能性もある。一度ドイツで超インテリ人二人に会ったことがあるが、(インテリであると同時に完全に西洋思想と一体化したために中国には帰れぬという運命を負った二人であったが)いろいろの話で李白、杜甫は大詩人という話の後にワシが白楽天の名を持ち出したところ超インテリの二人には全く知らぬ、聞いた事もないと言われた。

彼らと別れて多分白楽天は政治的な詩を書いたから中共指導者による政治的意図により抹殺されたのかとも思ったが以前ワシがちょっと出した長恨歌が悪いのか何ともいえないところがある。

ワシが半分そらんじて言える詩の存在も知らぬ国民が歴史を知るわけもなく、多くのあまり自慢にならない歴史は教えられることもなく、中国史を一番知らないのは漢字を知らない、つまり四書五経以来の資料も読めず中国歴史学が発生するはずもない西欧人を除いては中国人自身とも言える。

中国衰退の原因の一つというか最大のものが科挙以来古の文物ばかり学び一言一句をああだこうだと言うだけで新しいもの、西洋の文物科学を否定して世界に遅れを取ったことから考えると歴史否定もやむを得ぬか?

おっと見逃したが論語は春秋時代つまりBC5世紀ごろ。
隊商についてはカンシンの時代は戦乱、いつ殺されてもおかしくない。そこに全財産を持って歩く人間がいるか?
シルクロードは唐代と思っていたが秦漢に存在したとは初耳。一度暇があったら平凡社かブリタニカあたりで調べてみたいが?wikiはあてにならんよ?

開会式のテーマは〝発明〟

珍しくオリンピック開会式を観ていました。時差がちょうど具合が良かった。テーマは中国の発明でしたね。

紙、活版印刷、羅針盤の順。後「火薬」を入れれば中国の四大発明になるわけだが、さすがに火薬を取り上げることを遠慮したかと思って、ハタと気付きました。会場内外で繰り返された「大花火」。言うにや及ぶ。

勉強になったことを、ついでにネト繰ったことと合わせて書くと…、

●論語(紀元前2世紀初頭)は竹簡に書かれたのだった。紙の発明は2世紀初頭だから3百年も後。

なお蔡倫の紙の発明より前には、ほぼ同じ原料の絹屑から不織布を作る技術が実用化されていた。蔡倫は、ほかのさまざまな技術を「統合」したのだった。

●羅針盤の指針は、チリ蓮華みたいな形だった。「指南車」の発明(3世紀頃)が羅針盤の発明だと教わったように思うが、間違いでした。前者は磁石式だった。(後者は歯車式)

この発明の時期は分からないが、いずれにせよ羅針盤のお蔭で、

●15世紀初頭(1405-1433)に鄭和が7回の大航海を行った。無論欧州人の大航海時代よりずっと早い。コロンブスのアメリカ〝発見〟はご存知のとおり1492.

これを「海のシルクロード」として、その直前に出した陸のシルクロードと対比して見せていた。ウズベキスタンが入場したときは、それはシルクロードの中心に当っていたという解説を日本のアナウンサーがしていた。

後、鄭和も蔡倫も宦官だったんですね。もしかしたら象棋も実は宦官が発明したのかもしれません。麻雀は宮廷女官の遊びだったのだから、当然宦官の発明だったとろうと思って調べたら、なんと女官云々は「伝説」で、1850年頃、やはりいろいろなゲームを元に発明されたという説が或る程度有力になっているようです。

(次回は駱駝の隊商の速度)

シッツィン(3) もう一つの特徴 ―― 自由な初期配置

ゲームの規則としては、シッツィンには大きな特異性がある。それは初期配置は歩より他の駒は後ろとかいう常識的な条件の範囲で、先手が先に自駒の配置を決め、それに対して後手が、同様な制限の下で駒を配置する。それから先手が指し始めるというもの。

したがって先手が指し始める前に、チェスの数え方で10数手、日本将棋の数え方ではその倍だから、20数手から30手前後進んだ、序盤の定型の盤面になっている。

これはじつに高度なもので、チェスの「クイーンズ・ギャンビット」―「ニンゾ‐インディアン・ディフェンス」などに相当するものも選ばれる。

驚愕の事実である。チェスに酷似した高度な序盤がという意味ではない。それは一国のトップ・プレーヤー間では当然だろう。それよりも、隣接している国でありながら、共通の祖先を持つチェスがここまで違った発達をしたことがである。

このことは、日本の将棋を含め、地域間あるいは年代間での将棋の変貌が予想を越える割合で大きくなりうるものであることを改めて認識させる。

なお日本には昔子供の行軍将棋とか軍人将棋というものがあった。ネットで見ると、近年パソコン上で復活しているらしい。駒も発売されている。この場合は密集配置で、しかも裏返しに置くものだが、配置が自由な点が共通。

こちらのほうの起源はフランスのラタック(〝攻撃〟)というゲームだという。それはおそらく非常に新しい、せいぜいで200年足らず、のものなのであろうが、なにかチェス史に関係することでも出てくれば、そのときに記すことにしたい。

シッツィン(2) それは初め宗教的なものだった

シッツィンは、元々は半ば宗教的なものとして扱われていたと見られる。それは善と悪との戦いを映すものであるという。(以下前々稿リンク先(上)による。)

シッツィンの古い駒は、ヒンズー神話が仏教化した〝ラーマーヤナ〟(ラマ王行状記。3世紀頃成立)を次のように忠実かつ写実的に表している。

●ミングィ (王と同じ) 
[黒] 〝ヤマ〟 (神話のヒーロー〝ラマ〟のビルマ名) 緑面または緑ローブを纏う。ただし完全に緑にされることは無い。
[赤]  〝ダサギリ〟 十面の魔物。〝ヤマ〟の美貌の妻〝シタ〟を拉致した。
●シッケ (斜め1升)将軍。 
[黒] 〝ハヌマン〟 猿軍団の王。〝ヤマ〟が〝シタ〟を取り戻すのに加勢。 しばしば猿面人身で表される。
[赤] 強力な魔物
●ミェン (八方桂馬) 馬。しばしば乗り手が居る。
●シン (銀将と同じ) 象。同上
● ネ (ポーンと同じ) 
[黒]猿軍団たち 
[赤]魔物たち
● ヤタ (飛車と同じ) これだけは神話と関係が見えない。乗り物よりはチェスの城に見える。

改めて前回のリンク先(下)の駒を見ると、なんとなく頭が緑がかったものもある。ヤタはたしかにリアルな櫓である。

〝シタ〟に相当する駒は無い。トロイの〝ヘレン〟や、八岐オロチ(大蛇†)に喰べられることになっていた櫛名田比売を連想させる。

これは語源俗解同様、あまり素人が深入りすべきでないことだろう。それに最近は、神話や伝説に基づいたさまざまなゲーム・ソフトがあるようだから、私などより遥かに詳しい少年もざらに居ることであろう。

† 日本語(←当然!)ウィキによれば、オロチは大蛇と表記すべきではなく「遠呂智」であり、「お」は峰、「ろ」は接尾語、「ち」は霊力、また霊力あるものの意という。

ついでに、ヤマタノオロチの話は、人間神対動物神の「アンドロメダ神話」に属するという。ラーマーヤナでは相手は十面の魔物だが、この辺まではそれに属すのだろうか?

スワートの石仏も破壊

7月29日毎日夕刊によれば、2001年のバーミヤン同様、ガンダーラ遺跡中で最大というスワートの石仏もタリバン系組織によって2007年に破壊されていた。

スワート渓谷は観光地でもあるが、それはヨステン説でチェスが発明されたとされるカニシカ王朝の首都だったペシャワールや、昨年暮れにブット女史が暗殺されたパキスタンの現首都のイスラマバードから車で4時間半から5時間のところだという。アフガニスタンの首都カブールからバーミヤンに続く道の国境に当るカイバル峠からもその程度だろう。

仏像発祥の地であるガンダーラ地方の北部地域であって、下のリンク先を見ると、石仏の他ギリシャ(ヘレニズム)様式の遺跡を見ることが出来る。

http://www.saiyu.co.jp/special/pakistan/midokoro/nw_frontier/swat_valley...

仏教がこの地に栄えたのは紀元前3世紀から8世紀までで、その後はヒンズー教、ついでイスラム教と変わったが、石仏を含む仏教遺跡は地元住民によって守られてきたという。

痛ましく残念なことである。

シッツィン (Sit Tu Yin ビルマの伝統将棋)

ビルマでは(国際)チェスそのものが盛んだという。昨年7歳の少女がタイ・パタヤでの第8回アジア年齢別トーナメントで強敵ベトナム選手に混じって4位入賞したということで、連盟の元気が出ているほか、地震救援についても国際声明を出している。軍事政権が救援受け入れを渋っていたことを考え合わせると、勇気有る行動だったものであろう。それだけの国際性と(国内的)威信があると見られる。

なお7歳の選手が、スポーツで外国に国費派遣されたのは、ビルマ(ミャンマー)史上初という。日本では、チェスや将棋がスポーツだという感覚が皆無だが、それは先進国だからか後進国だからか判断しにくいものがある。
(チェスをスポーツとして扱う国や国際競技会では、男女別というよりは、女子だけの年齢別棋戦を当然のこととして開催している。)

ビルマの伝統将棋はシッツィン(Sit Tu Yin。英文ではSittuyinと一語に綴られることもある。)と呼ばれる。なお彼のスーチーさんは、アウン・サン・スー・チー(Aung San Suu Kyi)で、ビルマには苗字と名前の区別が無くて、これ全体で個人の名前。

さて、

http://www.chessvariants.com/oriental.dir/burmesechess.html

によれば、シッツィンの先祖がインドから来たことは疑われていない。9世紀にはビルマ独特のルールが成立したという。

シッツィンはいまでも行われているが、現行ルールは、ビルマのチェス連盟(国際チェスと伝統将棋と両方やる)が決めたもので、それ以前は時代、地域、社会的階層でまちまちだった。いまでは古いルールを覚えている〝古老〟も稀という。

駒名と、連盟ルールでの駒の動きは、次の通り。
●ミングィ 王と同じ(入城無し)
●シッケ 斜め1升
●ミェン 八方桂馬
●シン 銀と同じ
ミェンとシンはほぼ同じ強さに見えるが、ビルマのプレーヤーは、前者を後者と交換するのを嫌うように見える。
● ヤタ 飛と同じ
● ネ チェスのポーンと同じ(最初の2升前進のオプションや通過捕獲は無し)

ミェンはマーや馬に通じるが、ヤタはもしかしたら日本でも諸説有る「八咫烏」の「ヤタ」と関係があるかもしれない。

無論語源俗解ではあるだろう。しかし日本書記の海幸彦山幸彦のところに出てくる「無目籠(堅間)小舟」(まなしかたまおぶね)について某海洋学者(失名)はカタマラン([英] 双胴船。もとは例の故大野晋氏が日本語の先祖と言ったタミル語で2本並べた丸太)そのものだろうと言っている。

もう一つ。シッツィンの古い駒は、ヒンズー神話の〝ラーマーヤナ〟を忠実に模して居ると言う。そしてヒンズーの最高神シヴァは、乗り物として立派な鳥と、車か船か分からぬ物の二つを持っている。現に私は、タイかインドか忘れたが、博物館でその「実物」を見たことが有る!?

このラーマーヤナの駒の説明は、上記サイトにあるので、折を見て紹介したい。その一方で、東南アジアの将棋のさまざまな駒をネット上の写真で見ると、立体的で写実的なので、
(特にシッツィンの古い時代の駒。残念ながらその典型というべき駒の写真は、まだ見つからないが、

http://www.tradgames.org.uk/games/Chess.htm

にある程度古い時代の駒の写真が掲載されている。駒音掲示板で主にフィクションとして述べた将棋と曼陀羅との関連も再認識させられる。)
それが、なぜ日本で突然平板な文字駒に変わったのか、南方由来説だけで説明するのは、やはり無理があるのではないかと感じるようになった。両方のコンセプトが混じって日本将棋になったと言ってしまえば安易すぎるだろうが。

この論争に加わるには、私の知識は乏しいが、ベトナムの将棋事情を知ると、この印象が一層深まることは否めない。これについては近いうちに記す。

マクルク それは現代のゲームだ!

タイとカンボジアで現在も行われている将棋マクルク。人口が日本のほぼ半分のタイでは、少なくとも200万人がマクルクを指し、そのうちの5000がチェスも指すという。

http://www.chessvariants.org/oriental.dir/thai.html

にタイの少年男女がマクルク大会に出場して、対局開始前の握手を交わしている爽やかな光景が載っている。

さてマクルクそのものを解説することは本稿の目的ではなく、チェス史との関連においてのみ述べる。

まず英文ウィキは、2008年7月8日に改訂されたばかりであるが、「マクルクは、6世紀インドのチャトランガの子孫か、またはその近い親類である」と書いている。ここでも、マーレー(1913)によりチェスの唯一絶対祖神化されたチャトランガの地位が、僅かながらも低下していることが見て取れる。

つぎにWebマスターによりご掲載いただいた、大山記念館に展示されているというガラス棚のマクルクは、間違いで、正しい盤は、上のサイトの写真のように市松模様でない。

ただし歩(貝。正しくは貨幣に使われた子安貝やたから貝の類)が3段目にあること(日本将棋にそっくり)、女王(果実の核。大臣とも)が王(長)の右側にある(チェスでは女王は向き合う)ことは、正しく配置されている。

これ以外の駒の原地名は、中央から順に(仮)面、馬、舟。

馬はマ(ー)と発音されるが、貝はビア。ばい貝やベー独楽の語源に関係が有りそうであるが、それはともかくもともと本当に貨幣として通用していたもの。

動きは、核(臣)は斜め(四方)1升ずつ。面は日本の銀将。馬は八方桂馬。舟は飛車。貝はチェスのポーンで捕獲が斜め前。

貝は敵陣3段目に達すると、裏返して核の動きをする駒に成れる。ただし最下段に達するまでは成らなくとも良い。(成ると直進できなくなる。)

ここで、チャトラジ(4人制チャトランガ)を顧みる。王の隣には「乗り物」(車または象)が居た。その動きは飛車または(古代においては)それが制限されたものだった。

そう、もしかしたら金将の起源がこの辺に求められるかもしれない!

新奇な文物の紹介速度

※ 銀次郎様へ コメント拝謝。韓信説は中国人学者によるものです。中心人物のリー教授はおそらく在米または在加の中国人。チェスないし象棋のような新奇な文物の紹介速度については、別の推定が可能だと見られます。
  
  
稲作技術のようないかにも漸進的なものでないかぎり、二つの常時交易しているシルクロード上の文明都市間での新しい文物の移動速度は、どのようなものだったろうか?

まずカニシカ王の都だったペシャワールから長安までの距離を推定しよう。

ペシャワールは東経72度付近、こんど遷都先になるかも知れぬ西安(唐長安)は108度付近で、差は36度、つまり地球一周の十分の一。赤道上だと約4000km。ともに北緯34~35度辺り(日本の高松などと同じ)だから、もし同じ経線を辿ると、距離はそのcos(34~35度)程度。天山北路は上に膨らんでいるので、大圏航路に近づきさらに短くなる。cos(30度)=(√3)/2=1.732050807(人並みにおごれや女)/2=0.87…だから、北緯30度の緯線に沿った道でも3500km。したがって両都の実距離は多く見積もってもこの程度であろう。

さて駱駝を連れた隊商は、この距離を何日で移動出来ただろうか?ご存知の方があれば教わりたいが、全くあてずっぽうに推定して、時速2kmで1日10時間歩けば、1日に20km。175日つまり6ヶ月弱で着く。時速3kmで1日7時間歩いてもほぼ同様。

このように隊商によって、ペシャワールで完成し、流行しはじめたチェスならば半年後には長安に届くし、逆に長安で完成し流行し始めた象棋ならば半年後にはペシャワールに届きうる。

シルクロードによる文物の東漸や西漸は、当時の先進大都市間を結んで、最先端の知識と品物を運んでいた交易者や朝貢者に依って行われたものである。かなりの偶然性を伴ってじわじわと隣接地域に慣習が伝播することとは、全く性格が違うものであったろう。

後者のような態様が、あるいは、日本で優勢な「海のシルクロード」による将棋伝播説には当てはまるかもしれないにしても。

(次回はマクルクの紹介を予定しています。早ければ日曜朝に)

韓信説

教授殿の研究のお邪魔をしては、とも思ったが国際会議にも出席する、という事なので東洋の歴史に目を通すことも時間の無駄とも思われず中国の学者殿と共通の知識を持つことも必要ではないかと愚考致す。
ワシは国際会議はちょと苦手,しかしきれいなおねーちゃんとのうっふーん会議なら何時でもOKじゃよ。

墨子を念のためググって見たがコウユバンとの雲梯とかあるがワシには疑問。原書にそんな事は書いてないはずじゃが?しかし攻城戦というのは戦争の一部に過ぎず将棋の祖とも思えん。ワシが理解していたのは戦争シュミレーションを帯を解いて国境として兵力の差を茶碗、盃などで変え地形を考慮しながら陣を敷き時間的推移とともに敵を攻略するというものでこれは当時戦争の前に広く行われたことかとも思う。しかし多様な駒に異なる働きを持たせるまでの発想はなかったかも知れん。

中国将棋に河が有るのは周知のとおり。それに漢界、楚河とあるのは間違いなく楚漢の戦いをイメージしたもの。ただしそれがゲームとして拡がるのは通常数世紀後のことなので唐代が適切か?漢の時代にはそのような事が許されるはずもなく、つまり漢楚の戦いは殆んど漢が逃げ回っていたことから為政者には極めて不愉快な筈で、例えば江戸時代に関が原のゲームがあったとして家康が負け殺されることに庶民が笑っていたらそれこそ打ち首ものとは容易に理解されよう。

南北朝時代は漢民族と北方遊牧民族が対立したわけでそんなゲームよりも実際に戦いに負けて殺される恐怖が強くそのようなことは考えにくい。

やはり漢楚も遠くなりどちらの利害もなくなって政治が安定した唐代というのが適当と思われる。しかし南北朝時代に既に発明され唐代に広まったというのなら充分可能性はある。

こう考えると中印双方で独自に発展とも思ったが良く見ると象、虎、舟?などの駒があるが舟以外は中国に存在しないか希少動物で戦争に使われたとは考えにくい。

舟は海戦の例があまりなく(二度の元寇が失敗したのも海戦以前に船を操り軍隊移動ということ自体に元、後に元宋合同軍が慣れていなかったとも言える)象は北魏の孝文帝?の時代に仏教振興の象徴として印度よりつれてきて都がそのあまりの珍しさに大いに賑わったという記録がある。

何の情報もない時代でのその動物の大きさはモナリザ、月の石などとは比較にならない驚きである事は明らかでそのような珍しい動物が軍隊の一部として戦力になることは考えにくい。虎に関しては知らぬが敵に放てば威力としても飼いならすこと自体が難しいのではないか?

また馬、車がチェスと端の同位置に置かれていることからもこれは偶然とは考えられずチャトランガから輸入して中国的にアレンジしたと考えるべきではないか?年代を特定できるか?は分からんが中国で発生し印度、欧州へ伝わったとすると時間的にもその約倍の世紀が必要と思われる。

つまり仮に紀元1世紀に印度に存在して欧州に7-8世紀かかったとして中国原産とすれば中国から印度までその7-8世紀前つまり紀元前7-8世紀ごろ誕生して伝わったのでなければ当時の文化伝道速度として不自然であり、これは漢も楚もない殆んど伝説期であり文化と呼べるものがあったかさえも言えない中国黎明期で原始時代にも等しい事で不可能と思われる。

韓信が祖というのは東洋への関心が薄い西洋の学者がシーザーがチェスの祖というのと同じで歴史を知らぬ者の安易な発想という感じはある。韓信は逃げ回っていたという印象で知将として有名なのは張良。その死に方も悪婦で有名な呂公に騙し殺されるというはなはだ見苦しいもの。

また韓信が発明したという説もガイカの戦いの直前という事はありえないことで、そんなゲームに興ずる余裕があるかは戦いに敗れれば滅亡し殺されることを考えても明らかと思われる

語源探訪

●サンスクリットで宿題になっていた二つの語について

さまざまなネット上の辞書を調べて、ようやく解明できた。

◇pada 歩み(英 step) チェス盤の升目と言う意味もちゃんとある!

アシュタパダは8升。ドゥサパダは10升。

◇aGga 手足(英 limb) 一つの物から枝分かれしている従属的なニュアンスでの部分ないし部門。

英語での、単なるパート(部分)ではなかったわけで(そのために探すのにも時間が掛かってしまったが)、英語ウイキほかの英語サイトの解説が日本語ウィキに優るだけでなく、4人制の4つの部隊でなく、語義的に1つの軍隊が4つに分かれている意味だったことも確定した。

●リューボに出てくる梟または将について

◇梟 将と同音Xiao

リーダーの意味がある。梟雄も梟将も必ずしも悪い意味ではなく、もともとは強い英雄や勇猛な武将。

なお日本では坂口安吾の作品などの影響で、斉藤道三など「梟雄」には特に残忍冷酷なイメージが有るが、最近そういった人物そのものの見直しも行われているようである。

◇箸 これにサイ(コロ)の意味があることは前に述べた。貴人の女性が六度(♪)象牙の箸を投げて象戯をする情景が、紀元前の中国の詩に歌われている。

この箸は4人制チャトランガのそれと同様おそらく4つの出目を持っていたのであろう。

そして後者では、直方体つまり箸状のサイを「空中で受け止めて」出目を或る程度コントロールする技も行われていたことが知られている。

♪ リューボは六博で、いうまでもなく博は博打の博(微妙に当時の字体と違うが)。では六は何に由来するか?この詩を含めていくつか手掛かりはあるものの、これだけでも将来興味深い問題となるに違いない。

娯楽性とシリアス性と

皆様コメント有難うございます。

ダイナマイト様の仰る4人制の楽しさは、その通りでしょう。4人制チャトランガの写真を見たら、これで一家団欒をしてみたくなりました。

むろん民衆に大流行した時代には、偶然性はあるものの、それなりに難しく、「真剣」でやっていた人も多かったことでしょうが。

私は最近、4人制の有力ゲームが他にもいくつかあることについて興味を新たにしていたところでした。

もちろん麻雀が筆頭ですが、コントラクト・ブリッジもその前身のホイストから4人制だった。アメリカで一時そのブリッジを駆逐する勢いだったのがカナスタで、これも4人制。バックギャモンも4人とは限らないが、チーム対チームでやる方式があり、それなりに面白い。

なんとポーカーさえも、文献上では4人制のゲームが最初に報告されている(1829年 英文ウィキ)! 

ここで4人制が2人ずつ組むゲームと、そうでないものに分かれます。ブリッジは必ずペアで対抗。カナスタはどちらも有り。

それで4人制チャトランガについても、組むのと組まないのとの2説有るというか、おそらく2様有ったらしい。

サイコロを使わないやり方では、19世紀まで行われていたという。

さてこれらと銀次郎様の韓信発明説への疑念も絡む。果たして韓信はシリアスなゲーム分析をするような戦略家だったか?

これは評価が分かれるようですが、それ以前に、前大戦でも大本営での兵棋演習は、サイコロか乱数を使ってやっていたわけですね。

ですから以前ご紹介した〝過渡期の〟日本語サイトで、サイコロを使ったら「遊戯」、使わなかったから「シリアス」という区分には、私は本来的には納得できません。

例えば、自分は「考えて」指すが、敵の出方は、ある程度の合理的な確率分布を想定して、サイコロで決めることも十分考えられます。

私自身は、リー教授の原論文を読んでいないので、まだ韓信説を信用しているわけではありません。(読んだら虜になりそうな危険な予感がします。)

いずれにせよ、韓信説は、シリアスなものへの移行ないし発明をどう説明するかという、1990年代の問い掛けにシリアスに答えようとした研究の一つなのでしょう。

御教示ありがとうございます

サイコロを使用するとは、目からサイコロ(鱗)です。
失礼しました。

実力だけではなく運的な要素も加えてあるのですね。
誰でも楽しめるようにでしょうか?
4人制も同じ趣旨かもしれませんね。
1対1だと実力とおり決まりやすいが、4人制だとそうはなりにくいですね。

チャトラジへの補足

チャトラジ、つまり「四人の王」ゲーム、あるいは4人制チャトランガでは、「象」には、チェス記号の「城」を使うことに注意を促して置いた。これは「乗り物」(英語ではチャリオット)と呼ばれている。その動きはチェスの「城」つまり日本の飛車である。

したがって、写真の象の駒は飛車の動きになる。そして盤端の背の低い丸駒が「船」(図では車)で、斜め2升で、間の駒を跳び越せる。

折角だから、「舟勝ち」ルールをご紹介しよう。それは4個の船が、

○● ●○ ●● ●● 
●● ●● ●○ ○● 

の形のどれかになったときに、○が3個の●を総取りできることを言う。ここで●は敵の船(3人のもののどれか)。

たとえば、盤面で、

×●×
×●●
○××

という配置になっていて、○の手番だとすれば、それを動かすと、

×●○
×●●
×××

に出来て、3個の●を総取りできる。

ヨステンは、4人制チャトランガでは、王を「麻痺させる」ことが目的ではないと述べていた。とすると王を取られてからもゲームが続けられると解釈すべきだったかもしれない。そういえばゲームの終了についてのルールは書かれていなかったと思うが、「他の3つの王を取り、自分の王が残っていれば」というくだりが有ったことは、これと整合する。

4人制チャトランガとさいころ

※ ボナセーラ 写真やコメント本当に有難うございます。写真の象の鼻を見ると、1030年のペルシャの著者の説明(Ⅱの動き)の説得力がいやでも増しますね。ご質問に答えて、予定を変更して4人制チャトランガの御説明をします。
 
 
さいころと将棋の関係は、将棋の起源の核心にかかわる重大な問題である。「梟」が登場した以後のリューボ(六博)を将棋と見れば、初期の将棋がさいころを伴っていたことは明らかである。

以前ご紹介したリューボ図の陶器で、低い方の盤あるいは布に投げ出されている数本の箸状の物が当時のさいころであり、その名残は現代の韓国の将棋(ジャンギまたはチャンギ)に引き継がれている。

著に元々「さいころ」という意味があることには、駒音掲示板で議論しているときに気付いたのだった。

4人制チャトランガの成立はどうやら11世紀以後位と見ておくほうが安全なようではあるが、この初期にもさいころが使われたとされる。そのさいころは短いながらもやはり箸状のものであり、現代の説明では、垂直に立てて「一天地六」と約束する。これを振って立つことはありえないから2~5までの4通りの出目になる。

無論後代では、通常の6面ダイスも使用されたが、以下の説明通りだと、4と5に相当する動きの確率が〝箸〟さいころの場合の2倍に変わることになる。

各競技者は同時に2個のさいころを振る。その1個ずつの出目に応じて、2つの駒(または1つの駒を2回。パスも可)を動かす。

1か5 歩または王を
2   船(図では車。なおチェス駒図ではビショップを使っている†)を
3   馬を
4か6 象(同上城‡)を

「詰み」という概念は無く、王を取られた方から、敗退。各競技者が取った駒数が得点に換算される。歩1点、船(車)2点、馬3点、象4点、王5点である。他の3王を取るとさらに54点(自分以外の駒の総点と同じ)。

ここでは上の注釈にも書いたように、船(車)がビショップないし角であって、間になにか有っても無くとも斜め2升先にジャンプする。

ほかに「舟勝ち(トライアンフ)」という特殊ルールがあるが省略。またポーンの成りは2人制と違うとだけしか書かれていない。さらに興味の有る方は、この項を全面的に依拠した英語ウィキのChaturajiの項を見られたい。このチャトラジとはチャトル(=4)+ラジ(=王)で、いわゆる4人制チャトランガの一名。

さいころ無しのゲームは19世紀まで行われていたとされる。

†‡ 一見逆なことに注意。

超ど素人ですが・・

管理人様、写真感謝。

写真にサイコロが写っていますが、サイコロも使用するのですか?
使用するとしたら、どのように使うのでしょうか?

※ 答えるに値しないような質問でしたら、無視してください。

チャトランガ画像

チャトランガ...象の鼻付きですな。

左から、マックルック(タイ)、シャンチー(中国)、シャトランジ(中東)

大山将棋記念館で展示されているそうです。

(参考リンク)

「將棋起源」と銘打っているので...中国語ですけれど...

http://shogi.hk/history_of_Shogi_the_Japanese_chess.html

韓信の戦争シミュレーション説はやや疑問?

史書のその記述がないこと、
欧米の東洋史観は貧弱

ワシが見る限りその記述はなかった。後世の想像話の可能性も?

韓信の時代に孫子は普及、しかし知将というイメージはない。
ただし暇は相当あった。
知将といえば長良?が有名、、、漢字分からん

ただし誤認とも断定できん。
墨子は春秋時代で韓信に先立つこと2-3世紀。
これははっきり史書というか自書にある。

楚漢の戦いは中国人に一番イメージが強く河はそのイメージで後世成立した可能性無きにしも非ず。

204は202の間違い?ただしその数年前に背水の陣で有名な戦いはあった。

日本の銀は、象の四肢と鼻から来た!

2人制チャトランガについて、掲載いただいた図に基づいて解説しよう。

そもそもチャトランガの駒の動き方については、文献としては8世紀(アラビヤのチェス書)とか11世紀(ペルシャのインド書)とかに記述はあるものの、食い違いが有り、要するに確定していない。時代や地域によって違っていたかもしれない。

そういうことは案外現代でも起こり得るのだった!以前シベリアの学術都市のノボシビルスクを訪問した折、ロシアの青年達とチェスを指したのだが、キャスリング(入城=1手で王と城を入れ替える)の制限が、王手を逃れるために入城はできないとか何項目かあるうちの一番微妙な点で、国際的に標準なものとは違うルールでやっていたのだ。

帰路のシベリア鉄道の列車の中では、普通のルールでやれたが、ノルウェイやスイスの青年に3連勝したものの、ベッカーに似たロシアの青年には3連敗してしまった。鮮やかな光速の寄せだった!

さて英語ウィキに沿ってルールを御紹介する。(図参照、[ ]内は愚注)

Ⅰ.一番分かり易いルール.

王=玉、臣=斜めに1升、象=斜めに2升で飛び越しも可、馬=八方桂馬、船=飛車、歩=チェスのポーン。

[ポーンは1升前進、捕獲は斜め前だが、当時通過捕獲は無かったし、おそらく最初に2升というのも許されなかった。王の駒名は、サンスクリットに戻すと、隊長程度の格の呼び名だったと記憶。]

Ⅱ.象の動きは日本の銀と同じという説.

象の四肢と鼻[の攻撃先]に相当!
(1030年のペルシャ人学者のインド書)。マクルク(タイ)とシッツィン(ビルマ)[現行か]も同じ。

これは印象的である。

Ⅲ.象=2升縦横、他駒の飛び越し可という説.
(840年頃のアラビアのチェス書)

これはむしろチェスの城(図では船、4人制の図では車)の最も初期の動きだろうという説がある(19~20C初頭)。

チェスの城の動きについては、議論が複雑にならないように、あえてこれまで触れないで来た。8世紀アラビアのチェスまたはチャトランガで、城または象の動きとしてこういうものがあったということならば、多動駒の「惑星」由来説の信用はさらに増すわけである。

ちなみに日本語ウィキには、歩は日本将棋同様、前進・捕獲共前を主説にしているほか、船(車)は、飛車でなく香車の動きだったという説があるとしているが、これらの説は英語ウィキには採られていない。

今後追々分かってくることなのであろうが、船や車だと横方向には急速に移動しにくいというイメージが妥当だと思う人もあるかもしれない。しかしこれは戦場をミクロに見るかマクロに見るかの違いに過ぎないのであって、碁盤目状の道路や水路に沿ってならば、縦にも横にも移動速度に変わりは無い。広地や水面でもマクロに見れば同様である。

なおチャトランガの駒は、実際にはチェス同様白黒の立体駒だから、日本将棋のような視覚的な方向性は本質的でないと見てよいであろう。

いまのところチャトランガそのものについては良い写真が見つからないので、代わりに近く言及することになるカンボジアの将棋(タイ将棋同様マクルクと呼ばれる)の写真のリンクを貼る。
http://homepage2.nifty.com/hashim/cambo/ches.htm

なおWebマスターが紹介されたサイトには、「銀将の祖先は虎だった。」という説が開陳されている。しかし上述のⅡのように、象そのものの動き方が銀と同じだったという記述が11世紀のペルシャ文献に有る以上、中国将棋の虎を経由しなくとも、象と銀将を同一視しできることになる。

韓信の戦争シミュレーション説

皆様、楽しくお話が弾んでおりますね。まさに喫煙コーナーの感。

ベルリンの壁が崩壊した翌夏には、壁の残痕を探したが、それはすでに数キロ以内には跡形も無いということで、ドイツ人の気持ちがひしひしと伝わってきたものでした。チャーリー・ポイントは博物館になっていた。

ウンター・デン・リンデンには路上のカフェがいくつか出て、歩道ではブランデンブルク門を越えて東独軍の軍帽、バッジなどが売られていたが、左右のビルは、今の北朝鮮の写真で見るビルのように、端正だがどこか寒々しい感じでした。

ベネチア、ウィーンは音楽の町。ウンター・デン・リンデンも本物の菩提樹(リンデンバウム)を確認する目的も兼ねて行った。フィレンツェは今回落書きで脚光を浴びましたね。

銀次郎様>中国の将軍というのも時代と実名が明らかになれば多少は考えられるのじゃが? 

将軍は韓信で、その目的はイタリーの便覧と異なり、戦争のシミュレーションとされます。下の過去ログをご参照ください。(注の†‡は今回つけた。)

[Res: 22446] 2001年以降の動向 投稿者:歩曼陀羅華 投稿日:2006/12/17(Sun) 22:19

◆ David Li教授が自分の「中国説」の著作に対する批判に対して、論語の自訳(1999)に続きSun Tzuの Art of War(♪)を新規に自ら英訳(2000)したものを分析・引用しつつ、2001年に詳細に反論。【The Goddeschess Patnershipサイト リンク↑】

◆ 著者は、11の戦争事例の内次の地図とかかることを含めた。Sun Tzu(孫子?)の学徒(†)のHan Xin(韓信。これはたしかだったはず)がChu-Han (楚・漢ですよね?)紛争を終わらせた決定的な戦闘(204BC‡)に先立ち、Sun Tzuを引用し、原チェスでシミュレートした。

† 原文student.研究者、学者の意で学徒とした。♪は〝兵法〟
‡ 垓下の戦。注釈の位置が適切でなかったが、紛争が終わったのがこの年。この説が正しければ、中国将棋の発明は202BCE直前と特定されることになる。

タバコのばら売りは

タバコのばら売りはまだイタリアが貧しかった頃でいわゆる高級品、多分アメリカ産が高くて一箱買えなかったのかも知れん。アフリカでも見たような気がするのでそのこと自体はそれほど珍しいこととは思わなかった。

よけいなことを書いてご迷惑、削除しようと思ったら思いのほか盛り上がっている様子、お詫びのしるしにワシも一考察。

教授の高邁かつ難解な論文は無学の我らにはなかなか入りつらく、かつ時代と地域があまりに広すぎて素人論評も思いならぬ。中国の将軍というのも時代と実名が明らかになれば多少は考えられるのじゃが?

インドか中国か?どちらがどちらへ?はまず地理的要因を考えるとすると間にはヒマラヤ山脈があって通行不可能。西は砂漠とすると唯一の道はベトナムからのルートではないか?

中国最南端が越の国、ベトナムが越南と呼ばれるように土地も平坦で交流があったことは考えられる。当時は朝貢貿易であったことから中国からの下し物というよりはどちらがより一般に普及していたかだがベトナムからの貢物のほうが考え得やすいか?

中国将棋に河が間にある事はその成立は揚子江が国境としてあった南北朝以降から唐代か?金宋並立時は既に遅く有名な赤壁の戦いはまだ戦国期で国境としてはそれほど意識されてない。

それよりもチャトランガは全くチェスそのもので殆んど変化しなかったのが面白い。欧州でも川を挟んでの戦闘というのは少なく国境としては意識されなかった。

昔のファミコンソフトに中国将棋が入ってあったがルールが理解できなかった。金のような王の側近が9マスから出られないというのが何ともユニークで初心者にもなれず。囲碁のルールもちゃんと覚えようという気もなくだめ。まあ段になるには数年かかることを考えればよかったかも?

とここまで考えてはっとして気がついたが墨子という書に戦争好きの隣国の王を諌めに行った墨子がとうとう聞き入られずにやおら帯を解いて机上で戦争を模した試合をしたというくだりがある。

何回やっても王は墨子に勝てずとうとう戦争を諦めたとか?駒を使ったという記述はないが帯でか一手ずつ指して攻防を競ったというこれがある種将棋の記録の初めかも?

タバコは1000円という声も?落としどころが500円としてこれなら国民も納得、というのは役人の考えそうなところ?いずれにせよ喫煙者は高額納税か禁煙を迫られそう、、、お覚悟あれ。

外国での喫煙場所

小生も外国の話に参加させていただきます。

ヨーロッパの何所の国でも、建物内部は禁煙で、外では喫煙OKです。

飲食店に入っても、no smokingと言う表示はありません。多分、不特定多数が出入りする建物の中では、喫煙はいけない、と言う法律があるのだと思います。

飲食店の内部はすべて禁煙。喫煙者はどうするかといえば、建物の外の席に座る。多くの飲食店では、飲食店前の歩道にテーブルと椅子が並べられている。日本のように道路を占領して商売はしていけない、と言うことはないのであろう。冬の相当寒い日でも、外の席に座って食事をし、喫煙されている。外の席には、囲いはないが屋根はある。

乗り物は、すべて禁煙。ホームが地下にあればそこも禁煙。ホームが地上にあるとき、すべて喫煙OKではなく、ホームの一定場所に黄色い線が書かれており、その中では喫煙OK.

屋根のないサッカーグランドでは、観覧席すべて喫煙OK.

道路をくわえタバコで歩いている方をよく見かける。

想い出話

皆さん、思い出話に耽っているようですね。懐かしい外国の想い出、私も参加します。
 
たばこの話ですが、フランスでは1箱、確か800円近い値段。ある日値段を確かめたら、
そのあまりの高さに、しばらく考えこんだものです。スイスではたぶんもっと高かった
と思いますが、日本円に換算する気も起らなかった。レマン湖のほとりで、ぷかぷか
やりながら、この湖は琵琶湖と同じくらいなのだと感懐に耽っていました。ローヌ河の
流れ出るところを見ながら、これがあのローヌ渓谷を作っているのだと思うと、不思議な
気分がしました。

ヨーロッパの国では、やはりイタリアが一番か。ローマ、フィレンツェ、ヴェネツィアと
個性豊かな都市は今でも日本人の憧れの的になっているようですね。

私も、疲れ果てたときには、ヴェネツィアの運河沿いを散歩してみたいと痛切に思うことが
あります。でも、個人的に妙に思い出に残っているのは、シエナの坂道を一人でとぼとぼと
登って行った時の、なんとも言いようのない一人ぼっちの気分です。あの町の褐色の
色合いは今でも鮮明に思い出すことができます。
そして、駅の受付をしていた女の子たちがうぶで、可愛らしかった。高校生だったようです。

じい 様

じい 様 

ドイツのタバコ >ゲルベゾルデかな>楕円形の

葉と紙を 別々? >これは オランダ ドイツ が メイン でしたね
 >舌先の唾で 端をぬらして 巻きながら しめる
  >懐かしいなあ
あれって 結構コツが必要でした。

それにしても 明竜王 お粗末。
 >B1 程度は スパット 抜けて貰わないと

そうそう、佐藤さん 頑張れ。
 >その昔 駒落ちで(当然ですが) 教えてもらいました >優しい人ですよ

イタリアでは

普通タバコが買えずばら売りで一本ずつ売っていた。

ドイツでは一箱に15本くらいしか入っていなかった。

ウイーンでは葉と紙を別々に買って手で巻いていた頃が懐かしい、、、今でもあるかも?

教授殿

駒場の西部劇殿は そうでしたか。

小生は タバコを吸いますので 千円などとは 論外です。 スカンジナビア諸国が タバコ・酒に法外の税金課しているのは 衆知の事実ですが、個人的には許しがたい。ヘルシンキで酒を買うのは (販売場所を見つけるのが)大変ですよ。ついでに言えば、アメリカでも ソルトレークシティーは 辛い。 >NY ロスなど 簡単簡単

その昔、東ベルリンがあった頃ですが、チェックポイントチャリーから入り、平和公園?を見学した時に、ヒトラー官邸の石が土台に使われているとの説明を受けました。ウンターデンリンデンなど、あの頃はヒドカッタ。

で、話は変わりますが、今期のB1 は 厳しそう。
4敗までは 当確? 5敗でUPするかも?

煙草一函1000円とアーリア思想

チャトランガの説明に入る前に、驚いた発言を耳にしたので、一筆。

桝添さんと並ぶ、東大教養学部に居られた二大奇人の一方の西部氏が、今朝のテレビでつぎのように言っておられた。

(煙草値上げは財政だけでなく禁煙の推進のためだという発言に対して)

もともと禁煙はヒトラーが最初に推進した。それはアーリア民族は健康で強ければならぬという思想からだ。自分はそういう、人間が健全で無ければならぬという精神は嫌いだ!

全く知りませんでした。この人の言うことだから根拠は十分あるのでしょうが、ドイツの将軍は禁煙なんかしてたかしら。逆に煙草を吸わないちょっと陰険っぽい将校を見たら、親衛隊かもしれないと警戒した位のことはありそうですが。

私もアーリア史観の説明の中で、優生思想やハンセン氏病患者隔離までは言及しましたが、禁煙とは意表を突かれました。ヒトラー自身が煙草を吸わなかったことは知っていましたが。

とかく風化か封印されつつある「アーリア思想」が、身近な話題で言及されたので、ご紹介しておく次第です。

お礼

Webマスター様、ダイナマイト様有難うございます。

お蔭様で、私も書き進める張り合いを新たにしました。

一つの図が読者の目をひきつけ、読む気(あるいは書く気)を起こさせる効果はすごいものに見えます。本を作るときに編集者がいろいろ工夫するわけです。

もちろん図の本来の目的は、理解を助けるためにあるわけなので、一服したら、棋聖戦の最終決戦前に、折角のチャトランガの図に即して、書きついで行くことにしたいと思います。

ご案内頂いたサイトでは、日本将棋を中心に見た場合に、重要になる問題を考察して居られるのですね。この辺は、従来から日本人著者や研究家が詳しいところなのでしょうが、なにも知らなかった私の目から見ると、特に朝鮮半島のジャン棋(あるいはチャン棋)を扱って居られる辺りが、当然とはいえ印象的です。

参考リンク

小沼 諒 「銀将の祖先は虎だった。」 将棋の歴史

http://blog.livedoor.jp/r_onuma/

チャラトンガ2

このスレも参照数が1400を超え、関心の高さが分かりますね。
(話の内容が専門的で、レスできる人はほとんどいないが・・・)
このような格調の高いスレは貴重ですので、連載が続くことを熱望します。

管理人様、ビジュアル化感謝!
私のような、ど素人には大変助かります。

チャトランガ

教授、ビジュアルです...

4人用

2人用

ウィキペディアを読む(2) 英語版のチャトランガ

チャトランガは古代インドのゲームで、チェス、将棋、マクルク(タイ)の共通の祖先と推定されて居り、象棋、ジャン棋(朝鮮半島)とも関連している。

チャトランガは6世紀かそれ以前から行われて居り、それゆえ、もっとも普通には、チェスの最古の版だと信じられている。

チャトランガはシャトランジ(ペルシャ)の直接の祖であり、後者がチェスとして中世ヨーロッパに持ち込まれたチェスの形態であった。
(以上ウィキ英語版より)

こちらは2008年6月16日改訂。参考文献としてはマーレー(1913)のほか1999年までのが少数あり、オクスフォード系らしい他のサイトへのリンクも貼られている。

一読して、チェスの項目より、少しばかりインド説に慎重になった気配があり、また中国と韓国の将棋については、決してインド起源と主張していない。

なお多くの人は先刻ご承知だったかと思われるが、チャトランガには「女王」は無く、「助言者」または「将軍」が有ったとされる。「大臣」と言う呼び名も英語に有り、このページはいささか混乱している。(以前日本将棋との関りで、「インドに有った女王」と書いたのは、正確では無かった。)

この動きは、なんと斜めに1升ずつだった!つまり銀以下。

ウィキぺディアを読む(1) 英語版のチェス

ウィキペディアにはどの程度新しい学説が反映されるものであろうか?

たとえば英語版の「チェス」の項は、昨日(2008年7月5日)午前10:17に改訂されたばかりではある。
 
 
冒頭部:

現在の形の(チェス)ゲームは15世紀後半、遥かに古いインドおよびペルシャ起源の類似したゲームから発生した。

祖先:

チェスはインドで出来た[12]。その6世紀の初期の形はチャトランガだった。

文献:

[12] H.J.R. マーレー、チェスの歴史(A History of Chess)、1913.

典拠は95年も前の「由緒正しい」代物だったわけである!

リューボ(六博)の遺物

ここまでで世紀、あるいはミレニアムの変わり目を挟んで、チェスのインド起源説の影が急速に薄れてしまった現状についてはお伝えできたと思う。

クシャン説から派生した私見として、チェスは結局中国起源と考えるべきだという見解を述べた。それはヨステンの第Ⅰ型、私のいう中央駒つまり王駒の存在が最も古く証拠立てられているのが中国のリューボだからである。

ヨステンの説は、当らずといえども遠くはあるまい。しかし双六と天文盤と、王駒のあるゲームを比べたら、どれを主たる先祖とすべきかは明らかではないだろうか。

それは「言葉のアヤ」、「起源の定義」の問題に過ぎないともいえるかもしれないから、とりあえずここまでにして、リューボの遺物の写真をご紹介しよう。

http://history.chess.free.fr/liubo.htm

ここには全てリューボに関するものだけであるが、30近い図版がある。その下から7番目、赤陶で大理石と見られる高低2つの盤を並べて遊んでいる像に、問題の「梟」が居る!主盤上の赤めのゴロンとした大きい石がそれである。

時代は「漢」、つまり208BCE(紀元前 以前のBC)の前漢成立から220CE(紀元後 以前のAD)の後漢終焉までの範囲。ちょっと幅が広いし、後漢期だとすればクシャン帝國と時代が重なるが、以前書いたように前漢初期の200BCE頃には、中国の文献に、この2種の盤を使ったと見られるゲームの情景が詩として現われる!

「梟」がどこから来た言葉かは分からないが、別の呼び方は「将」。「梟雄」と言う言葉もあったし、発音などどうなっているのであろうか。

女王と角と銀

多動駒の最強のものはいうまでもなく女王(飛角兼備)である。これが日本将棋に欠けていることは、それがチャトランガから中国経由でなく、直接東南アジア経由で来たという説の難点の一つであることは、とりあえず明らかだから、相当な理論的補強が行われているのであろう。いずれにせよインドのチャトランガには有った女王を、誰が、いつの時代に、どこの地で、何ゆえに消滅させたのかを、推理し検証できれば面白い。(♪)

さて、その女王の古典的な動きについて考える。

いうまでもなく、チェスに金将は無く、その位置に1個の女王があり、王と女王の両脇に順に僧正(角)、棋士(桂)、城(飛)がある。

前のコメントで僧正の元は象で、それは斜めに2升動くものだったと記した。ほかに女王が有るゲームでは、女王こそ角で有った。つまり斜めで突き当たるか捕獲するかまで何升でも進むことができた。
(これは10世紀前後の中近東チェスについての推定に過ぎないとも見られる。前コメントで述べたようにビショップの動きの変遷自体が今日もなお研究テーマであり、それと密接に絡む問題であるからには。)

ということは、イメージとしては位置といい機能といい、むしろ日本にしかない銀が象に近い面があることにもなる。

しかし、女王と象は全く別か?というと機能上はそう明確に識別できるとは限らない。

というのはバビロニアの天文盤にまで遡るチェスの円周盤は4コースのトラックを持つ円形競技場状の盤を使う。9~10世紀に中近東で流行したことが知られている。

その一周を16等分すると、正方形盤で行われる通常のチェス同様64升で闘うことになるが、数学でいう「位相」、つまり道路のつながり方は全く別物になる。下のリンク先に有る図は、現代風にアレンジされた円周チェスのものであるが、盤は本質的に同じである。(なおこのサイトには関連する情報が多く有るし、円周チェスを試すことも出来る。)

http://www.chessvariants.org/shape.dir/circular.html

さてここで角(女王)を動かすと、無論一番内側のコースに居てもせいぜいで3升しか進めない。そこで一番外側のコースになってしまう。外側に居たにしても同様である。伝統的な天文盤は3コースを12分したものだから、その場合角は最大で2升しか進めない。そう、じつは象と同じであって、違うとすれば他の駒を飛び越えられるかどうかだけである!

♪ IGKのような発明史としての論理的な視点に立てば、4つのWだけでなく、1つのHさらには5番目のWも考えるに値するかもしれない。つまり女王の「機能」ないし「コンセプト」は、単に消えただけなのか?そうでないとすればいかなる方法で、何に引き継がれたか?

実際の将棋を見れば、斜行系を基礎とする駒としての視点からは、女王の初期配置と動きは金将と角とに、(そして多少は銀にも)分散して継承されている。ただし近代以後のチェス戦法では、ゲームの極く早い段階を別にすれば女王自身が王を守るという感覚は見られない。このことは、駒の強力さが違うから当たり前ではあるにしても、将棋の金将の役割とは本質的に異なる。棋力の無い私から見ると、チェスでしばしばルーク(飛)が守備駒として活躍するのと似たようなことが、ときどき将棋にもあるようではある。

多動駒の動きは〝惑星〟からだった!

多動駒、ヨステンのⅡ型、の運動こそはチェスに於いて、その華麗な魅力とプレーヤーの知能を最も発揮させる部分である。

ビショップ(僧正 角)、ナイト(棋士 八方桂馬)、ルーク(城 飛)の3種類。

このうちビショップの前身はしばしばエレファント(象)と呼ばれるが、近代のそれのように他の駒につっかえるか捕獲するところまで何升も進めるものでなく、たとえば斜め隣に駒が居ると飛び越えることが出来るといったものだった。

つまり、私には全く思い及ばなかったのだが、なんと角と桂馬とには共通性が有ったのである!角度が違う2種の斜行。他の駒を飛び越えて2升移動できる。それより遠くには進めない。

ビショップの動きの正確な変遷は、それ自体がチェス研究のテーマになっているが、ともかく、このことを予め知っておられたほうが、次の説に納得しやすいであろう。

今回は過去ログをそのまま転載しよう。

[Res: 22446] チェス中央アジア起源説4 Ⅱ型 投稿者:歩曼陀羅華 投稿日:2006/12/22(Fri) 18:57

【解答その2】 ● Ⅱ型(多動駒) 恐らくメソポタミア

● バビロニアの天文儀(†)が最もよい説明になる。主要神であった7惑星の「像」が12×3宮=36升の円盤上で動かされた。

今のイラクということですね。愚にとっては、ヨステン理論の中でも、とくに新鮮なところです。

● 駒の多様な動きは、天体の動きのパタンで全て説明できる。
● 天文儀は文献・遺物が豊富。

さらに、インド同様、盤の地域的ないし民族的継承性を裏付けるものにもなりますが、
●9世紀前半には円周盤を使うギリシャ・チェス、天文/天空チェスを含む6種のチェスが中東に有った。
●ビザンツ・チェス(‡)と外形的に類似。 http://www.chessvariants.org/historic.dir/byzantine.html【↑】

† (愚注)年代は明記されていない。1100BCには有ったとされる。
‡ 16×4=64升の円周盤とシャトランジ(ペルシャ)駒を使う。10世紀ビザンツ(現イスタンブール)で流行した。、チェス駒でやる「円周チェス」として現代に復活しても居る。どちらもコンピュータ相手にやれるWEBサイトがある。

前進駒(歩)のコンセプトがインド起源である

● Ⅲ型(前進駒) ほぼ確実にインド

● 駒に区別が無く、単純な盤とサイコロを用いて行われる、レース・ゲームの多様さで最も知られているインド亜大陸に帰すべき。

(上記は駒音掲示板[Res: 22446] チェス中央アジア起源説3 Ⅲ型 投稿者:歩曼陀羅華 投稿日:2006/12/20(Wed) 19:32より抜粋)

レース(競走)ゲームとは双六や回り将棋の類だから、その起源論自体が自ずと別の物。どう見ても中央駒(王駒)を持つ将棋より古そうに思われる。エジプトとかアフリカ発生説さえ聞いた覚えがある。

ヨステンは一種の折衷論者として、インド起源派の顔を立てた可能性さえあるが、無論クシャン帝國とインドの地政学的関係からは、もっとも自然な見方であろう。

正確な読み方は分からないが、ヨステンはThaayam (サーヤム)と、 Pachisi (パチシ)またはChaupur(チャウプル)と呼ばれるインドのゲームを美しい図解とともに上げている。後者はインドの国家的ゲームと位置づけられているが、いずれにせよ、これら2種のゲームについてはチェスないし遊戯史ですでに詳しい研究がなされているようである。

なお今出典は分からなくなっているが、長い間チェスの原点とされて来た4人制チャトランガは本質的にレース・ゲームだったという主張も読んだ覚えがある。

これで王と歩兵の起源は分かった。いや他に人類の歴史の中で起源が無かったかどうかまでは私には断言できないのだが、すくなくともクシャン帝国に直接つながる前身の存在は証拠立てられた。

念のためであるが、王と歩兵の起源など実社会には遠い昔からあるもので殊更考えるには及ばない。ここで問題にしているのは、あくまでも駒の機能をゲームにおけるコンセプトとして分類し、そのコンセプトを中心にしたゲームが何時どこで行われていたかということである。

さて残るは多動駒。約束なので、どこから来たかの答えだけここに記そう。

それはメソポタミア(いまのイラク)から来た!

中央駒のコンセプトは中国から

まずⅠ型の答。

●Ⅰ型(中央駒) 中国
●「リュウボ」(Liubo、六博†)から来た。中央駒を囲んで「麻痺」させる発想は、囲碁とも共通する。

「リュウボ」は要するに中国の双六で1500BCからあったが、他の双六と決定的に違って、中央駒と普通駒(6個ずつ)の区別が生じた。研究者はこれを「将」と「卒」、あるいは「魚」や「石」と「梟」と呼んでいる。

【リンク↑ 図版・写真が豊富で楽しいですよ。】

(駒音掲示板過去ログ[Res: 22446] チェス中東起源説 Ⅰ型とまとめ 投稿者:歩曼陀羅華 投稿日:2006/12/23(Sat) 07:12 から抜粋)

残念ながら当時のリンク先は、過去ログでは不明である。私の手元にある図版コピーを掲載することにも著作権上と技術上のネックがあるので、後で適当なサイトを探してご紹介したい。

ただIGK~ヨステン論文のサイトには、どうも2006年の時点より大幅に図版が増えている印象があるので、先を急がれる読者はとりあえずそちらを参照されたい。(私自身は最新の発見に期待しつつゆっくり見て行きたいと思う。)

ところで中央駒は、つまり王駒であるが、それがチェスというゲームの特徴を決定付けるもので、他のコンセプトよりも本質的なものと考える人は、私の他にも多く居られるのではなかろうか。

それゆえ、私は、チェスが3種のコンセプトを統合したものだったという学説を認めた上で、なおかつ、改めてチェスが中国起源だということを主張しても差し支えないのではないかと思う。

♪これを書きながら観ていた日曜美術館で、山東省の石仏展が紹介されていた。7月13日まで萩であるとのこと。行きたしと想えども余りに遠し。萩原朔太郎の時代と違い、パリの方がまだついでがあったりするくらい。

それにしても衝撃的な情報が含まれていた!

●6世紀頃からのもの(?)
●シルクロード経由でなく東南アジア系
●インド風の丸顔

これは日本将棋の東南アジア経由説に貴重なヒントを与えることになるかもしれない。優しい顔、柔らかな姿は、どことなく日本将棋の駒の優しさ(機能や名称)に繋がる。経典や教義は別として、仏教芸術に、明らかに東南アジア系のものが山東省に有った以上、日本人好みの仏像にもその傾向や影響があると見るべきであろう。

(無論同じことを全く逆に見ることも可能である。日本人の中にはもともと東南アジア系の丸顔の人や姿の好み、美的選好も一定の割合で有る。その背景から、東南アジアと「共通」の姿に変化ないし発展しているだけであって、別にインドから漸進的に伝播してきたものと即断する必要は無いとも言える。山東省とて同様かもしれない。東南アジア系の仏師が移り住んだと見るのが自然であるにしても。)

仏教がどのようにして日本(あるいは山東省)に入ったかという問題と、南方的な仏像がどのようにして日本(あるいは山東省)に入ったか、またはそこで生まれたか、という問題とは、もともと全く別なのであろう。将棋の場合にはこの両者にそれほど大きな乖離は生じにくいと思われるが。

アーリア史観とインドの虚像

私達はインドを余りにも大きく見すぎていた。たとえばバーミアンの巨大石仏が「インド北西部にある」という解説が、どうやら比較的最近現地に行って写真まで撮ってきたらしい人のWEBサイトに現存する。

それは北ないし北西インドにアフガニスタンや、もしかするとウズベキスタンあたりまで含めかねない理解である。(後者の首都であるタシケント付近からはなんらかのチェスの出土品があったという記憶がある。)つまりある時期までの一部書物の記述の「刷り込み」から逃れられないのであろう。

このようなことはなぜ起こったか?それは一つのスローガンとして言えば「アーリア史観」である。

それは言語の上ではサンスクリットからラテン語はおろか英語やドイツ語まで繋がる印欧語族があることを一つの「科学的」根拠として、西欧人とインド人が広い意味では同族であるとし、それに基づいて世界史を展開する立場である。

この歴史観、それ以前に人種・民族観が正当か荒唐無稽かはしばらく置き、それが近代に及ぼした影響をグローバルに見てみよう。

1.まずイギリスがインド支配を正当化するためになんとも都合の良い「理論的根拠」、つまり「口実」、として大いに流布させた。「インド」の範囲も広く広く理解させようとした。

ついでながら、インドのカースト制度に付けこんで内政を進めることにもこの理論が利用できた。

2.ついでヒトラーがユダヤ人その他に対する純ゲルマン人の優位性を主張するために、またまた極めて都合の良い「理論的根拠」として採用した。

この流れで見るかぎり、イギリスの道義的責任は重い。

3.私達日本人の場合、先人や先輩は、政治的には日英同盟、枢軸を通じて、また一般的に英独の文化を学ぶことで、インド人とインドに対するイメージを脹らませてしまった。

なお本稿とは直接の関係は無いが、ハンセン氏病隔離や優生手術といったものにも、私には、奥深いところでアーリア史観の残した爪痕が感じられる。

4.一方で中国はもとより、中央アジアもあるいはイラン(ペルシャ)も大いに地位を貶められた。といってもイラン人は分類としては、彼等の言うアーリア民族に属すると見られるから、要するに辺境の二等民扱いだったということであろうか。小さな日本でも差別があるくらいだから、中国と旧ソ連圏を除きユーラシア大陸を覆う大構想の中でなにかの区別が生まれる(しばしば捏造される)ことは頷ける。

5.チェス史に戻ろう。決して私達だけが遅れているわけではない。むしろチェス史の専門家達こそアーリア史観の陰を20世紀末まで引きずっていたことは断言してよい。

ネット上で確かめると、21世紀になった今「アーリア史観」は、どうも国際場面ではうっかり言及できないテーマになってしまったような印象がある。それはある種の「陰」を持つ言葉だからであろう。そしてつぎのことは、20世紀的な言葉遣いをすれば、チェス史におけるアーリア史観批判と呼ぶべきものであろう。

ヨステンが2008年4月になって書いたと見られる補遺は、

「チェスにおける植民地主義の終焉」

と題されている。そこには英印神話を背景に1694年にチェスのインド起源論が書かれ、つい昨日まで、皆がそれから抜けられなかった。たった300年のインド支配の歴史の陰になって4000年のシルクロードの役割が無視された、などの記述がある。

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