将棋第二競技論

有名な桑原武夫の俳句〝第二芸術論〟のパロディになるやも知れませぬが,昨今の状況を見るにつけても,将棋は所詮第二義的な競技なのではないかという懸念を拭え切れませぬ.

今日は旧正月,中国では春節というそうで御座いますが,を迎えました.今年は偶然節分にも当って居るし,新燃岳は噴火するし,なにかと将棋連盟と比較される相撲協会は放駒理事長以下てんやわんやで,なにやら活気が有りまする.我らもこの活気に肖りませう.

この掲示板はオーナー様の見識と御尽力のお蔭様で,二年間楽しく上品に議論させて頂いて来ましたので,我らもそろそろ少し危険を冒しても良いかと存じまする.

桑原を気取るわけでも有りませぬが,愚は将棋の「第二義」性を論いまする.いうなれば将棋の第二競技論で御座います.

俳句のように,日本人ならば誰でもある程度やれるが,どんなに優秀な棋士でも,客観的に評価すれば日本だけに限定され,世界的競技者としては通用しえないトカ

世界的競技とは違う日本人独特の美意識で限定されているトカ

それゆえ普及も限定されており,決して囲碁ほどにも世界的になることは有り得ないトカ

では,よしなにお願い申し上げまする.

投稿者: 歩曼陀羅華 投稿日時: 木, 02/03/2011 - 18:35 categories [ ]

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「そうでも思わないと

やって居られないんだろうねぇ」

というのは愚の世界でよく出てくる言い方で御座います.

第三の道

>③満足してもいないし,前進も無いが,努力し続けるほか無い.

本人としては努力しても結果がついて来ないため、いつの日にかそれは「努力をしているつもり」に変化し...②に帰結する...と見ますが?

...精神の緩やかな死ですな。別の言い方をするなら 「蛙の釜茹で」 です。

神は第三の道を与えたもうた

③満足してもいないし,前進も無いが,努力し続けるほか無い.

インタビューに応じた件の棋士は,棋士たちの大部分がこれだと語っているように受け取りました.

ルームランナーに乗っているようなものですね.

先ちゃんや神吉は②でせうけれども.

同情的,好意的,自他の弁護(とても体制改革に頭が回らないし,現状に特に不満も無い.),自嘲的,残酷のどれも当てはまります.

両世界とも

...「○○(棋士・教授)に有らずば人に有らず」の世界で、そこに身を削ってたどり着いても、そこは単なる通過点でしかなかったとさ。

さて、ここから...

①更に前進し、道を究めるか、
②満足して、惰性・慣性のままに身を委ねるか

...が人生の分かれ道!行き先はルーレットだけが知っている!(笑)

若手棋士と若手大学教員の心情的類似

駒音経由でImpact氏のインタビュー文に誘導され,3月23日~4月11日分を通読しました.

愚が面白いと思ったことの一つは,若手(~中堅?)棋士の基本心情が,大学教員と相当に似ているところです.

(ア)C2を2,3期経験すると,自分の先が見当がつくらしい.A級に行けそうかとか.

これは助教(昔の助手)クラスでしょうか.C級卒業とは,准教授(昔の助教授)とするか二流大の准教授や教授等とするか.

(イ)頑張らなければ落伍するが,頑張ってもどうなるかは見えない.

大学もその通りですが,いくつか付け足すと,

ⅰ)将棋は対局の勝ち負けで決まるから,よりすっきりしている.

大学は教授はおろか助教任官でも「品格」まで議論対象になるし,となると「客観性」も怪しくなりうる.

昔は未だそれなりに一定の信用ができたが,最近の東大工学部などは恣意的でひどいもの.(愚が暇人氏に触発されてと金Tokingに書いた『嗤われる大学教授』を読まれたし.)

それに対抗したのが,やはり工学部も含め,東大の日本社会における権威が目の上のたんこぶだった京大で,こちらは表向きは論文の点数主義にした.

これは,一見公平で合理的なようだが,実は,論文の数量稼ぎには,ゲーム的なものがあり,将棋とは違って勝者に絶対的価値が無い以上,グレシャムの法則(「悪貨は良貨を駆逐する.」)が働く.

要するに,京大は欧米の学術雑誌に日本人の研究の評価を依存しただけで,所詮日本が敗戦国で後進国の時代にしか有効ではなかった.「東大は日本的だが京大は世界的だ」などと誇っていたが,今顧みると,結局京大は,世界をリードしたのではなく,日本の学術を売って,欧米学会のポチになっただけだと総括される.

それが共通一次試験(今のセンター試験)の輪切りで合格者の格差が世に知られる少し前頃以降の京大の真相.
(その前は教授団にも学生にも独自の良い時期も有った.[ことにしておきませう.古き良き時代の京大へのオマージュ或いは墓碑銘として])

ⅱ)本当に天分の有る人間は,勤勉で頑張ることは同じにしても,単に量的なものだけでなく,大抵はどこかポイントが違うもの.
(しばしば外見は全く頑張らないとか怠惰であるように見えることさえも有る.昔の有名数学者にはそういうのも居たし,俗物も居た.現代は世知辛いし,大学人も矮小化する一方だから,見かけは皆平凡化した.が,稀に凄いのが居ると思いたい.)

閑話休題 

(閑話とはいえ,グローバル化して弱いことがバレタ碁界,悪評芬芬ではあるが世界各国から優秀なのが集まる相撲界,駒音での話では,中国から日本に来たがっている少年将棋棋士などが居ることなど考え合わせると,少なくとも愚には,それとゲーム化しつつある学術業績競争,留学生の処遇助成などを比較対照する意味が有るのです.

またつい最近駒音では,東大出かどうか知らぬ誰かの文章を東大のエリート臭の鼻持ちならなさに擬える発言が有ったけれども,東大(出)に対抗する京大(出)も,きれいごとだけでなく相当に臭いものなので,少なくとも将棋連盟と昔の関西将棋研究会との対比,あるいは将来の後者の復活,現在の谷川氏の批難囂々のスタンスなどを考えるときの,一つの参考にならないとも言えないと思うのです.

ついでに,駒音掲示板のような日本最高の知性が紛れ込んでいるらしい場所を利用して,ハイネのような大学批判を日本で試みるという初心も,まだ残っています.愚にとって書き甲斐が有る割には安全な隠れ家でしたから.今はと金倶楽部に感謝.)

(ウ)永世名人資格者はノーベル賞受賞者と似た格を自他ともに許しているらしい.

愚から見ると,前者は伝統文化の象徴的継承者だから,将棋の権化として(ミス日本の美女達や,Impact氏のインタビューにも出てきたミスター・プロ野球などと同様)一定の正当化できる面が有ると思うけれども,後者は,戦前野口英世を偶像化したのと同程度.現代日本で,一部マスコミがちやほやしたり文科省が利用するのはともかく,ご本人たちが学問の象徴気取りだとすれば(概ねその程度),理系については情けない.

(エ)兵隊の位では,山下清ほどの教養もないので,分かりかねますが,上出のほかは,差し詰め,

奨励会3段はポスドク(博士号取得済みの研究者で,安定した地位についていない人)でせうか.

A級到達は,理系若手の目標に置き換えれば,ともかく世界の一流に伍すということでせうね.

再開しますので宜しく

藁人形様の御寄稿のレベルが余りにも高かったことと,愚の範疇分けにやや難が有ったのか,議論の咀嚼と整理を考えているうちに,(2010)年度末で,ひどく多忙になり,そこへ社会全体も(愚も相応に)震災の影響を受けて,そのまま昨(2011)年度中は休眠状態になってしまいました.

今年度は,一番野暮な仕事から離れることができましたので,1年前までほどではなくとも,継続的に,というよりは断続的に,やって行きたいと思います.

この一年間で,将棋の世界にも,変化,変革は有ったと思います.震災と原発事故で日本社会の中で起こった変化,変革も,将棋に対する見方の変更に繋がるかもしれません.

藁人形様の前レスは一つの記念碑的な頂点に達したものとして,今春は,将棋の美技論から順にという昨春のプログラムから一旦離れて,議論を再開したいと思います.よろしくお願いします.

捌きのアーチスト

云わずと知れた久保二冠に冠せられたキャッチフレーズですね。
多くのギャラリーは久保二冠の華麗な指し回しに芸術性を見い出している証左でもあります。
で、先日の棋王戦第一局を見てれば分かるのですが、投了図の久保美濃城はまったく危なげない形で
終手直前の飛先から逃れた▲5八金が久保二冠の持つ美学を感じさせる一着だったと私は思っています。
つまり、勝敗が決した後で意図的に余分な手を指したのは、多分にギャラリーを意識してのものだと思います。
もし、逼迫している局面ではこうした手(第二種美技)は指さないでしょう。
私はセメントマッチでは多くを期待しません。
教授が仰るようにプレイヤーに「美技を意図的に演出」する余裕がないからです。
が、稀にですが無意識下というか無意図の超美技に遭遇する場面もあります。
よく云われる「ゾーン」に入ったときに生み出されるのですが、先日のアジアカップの李選手の決勝ゴールなどはまさにその典型ですね。
将棋も、頂上レベルに達した者同士が純粋に盤上没我した時に限って「ゾーン」は発生するのではないかと思います。だから名局と謳われる過去の棋譜の中に第一種美技は存在すると信じたいですね。
私の様な多くの凡人はそうした場面に遭遇したくてプロプレイヤーの競技を見ているのではないかと思うのですが、如何でしょう?

将棋の美技は演出できるか

(藁様の御議論を読んで,将棋美の諸態様を分類してみようと思いました.)

出発点として,将棋の美技として,

(第1種美技):棋譜だけで分かるもの

があるでせう.

しかし,トップ棋戦でそれを「演出する余裕」は無いだろうし,もし有ったとしたらそもそも対等な者同士の名局ではないと想像します.

もっともそれは,こちらの美技の観賞力の乏しさによるのかもしれない.というのは,愚がチェスの棋譜を観た場合,絶好調のプレイヤーが,

(第2種美技=棋譜上で第1種美技を演出する):敢えて,より華麗な指しまわしを,相手とギャラリーに誇示

して見せたとしか思えない棋譜もあるからです.

だから,将棋でも棋力の高い人は,棋譜だけからそれを感じて楽しむことができるのかもしれません.念のためですが「美技」そのものを出すことではなく,「美技を意図的に演出」できるかの問題です.

スポーツでも美技の大部分は,(将棋の指し手のように)鍛錬されたことが基礎にあって現れる合理的な動作の結果として出ているので,「計算して演出」しているケースはあるものでせうか?バスケットボールなんかでは優秀なプレイヤーはある程度意図的に技も姿(これは将棋の美としても次のカテゴリーで考えます.所作といえば良いですかね.)も美しく見せている様には思います.

長嶋さんは,広岡氏なら凡ゴロのところを,華麗なファイン・プレイに変えることでも天才だったという.またいわゆるスタンド・プレイができる野球選手は結構居た.

これに相当することは将棋の盤上でできるのでせうか?

付.

勝つ場合に,大山が相手を詰ませないで延々と楽しんだと聞いて居ますが,負ける方では,男女のペア将棋で,先ちゃんが敢えて頭金で詰まされたのを観たときはサービス精神が分かった.しかしこれらは「美技」ではありませぬ.

コメンテーター

>将棋の解説も「オーテビシャっ,フンドシっ,ダブル・オーテ,トリプル・オーテっ,あ 転んだ」

駒音の裏板で猫仮面さんも申してましたが
確かにサッカー解説者(多分、松木さんだと思います)は子供じみていると思います。
プロ野球もそうですが、多くは現役を退いた有名選手が重用されるので、競技に対する思い入れが強い分
こうしたこと(熱狂的)になるのと、それを怖れるあまり一歩引いて感情を挟まず専門的、技術的に説明すると視聴者が分かりにくいと、両面の間を揺れ動いているのではないかと推察します。
それと、長嶋氏が一時、文化人として世界陸上のレポーターみたいなことをしていましたが
ああしたイベントなどでまったく畑違いの有名人を使い耳目を引く手法はいい加減止めて欲しいですね。メデイアには。フィギュアやバレーボールの放送でもこうした視聴率獲得の手法は常套手段になってしまっていて、日本のスポーツ文化の低俗化を助長しているように思います。

>3.将棋の評価に勝負の他に芸術的価値を篭める見方をするなら,
>将棋とは少なくとも純粋なマインド・スポーツたり得ず,
>純粋なスポーツとしては疑問の余地もある「新体操」や「フィギュア・スケート」に相当することになる.

興行的価値を一切除けば、内容はともかく勝負の白黒つけるだけでいいと思います。
それは競技者にとってのゲームであり、観衆はそこに芸術性や美学などを求めたりしません。

プロ棋士による興行的側面が色濃い将棋の場合、多くの観衆はプロ棋士の指し手に人間としてどのような対処をするのかを見ているのだと思います。
その人となりが指し手に反映するからこそ面白いのであって、ただ強いだけでは人気は出ません。
人気が出ないということは興行的価値を失うことになります。
だからこそ人々は挙って人間性だの芸術云々などと付加価値を付けたがる。
よって、純粋なマインドスポーツとしての将棋は、連盟棋士には期待できないと思います。
若き日の羽生さんが純粋なゲームと将棋を捉えていたのは間違いないのですが
それだけでは業界全体が立ち行かない、成り立たないことにようやく気付いたんでしょうね。
今は渡辺竜王がそうした若い頃の羽生さんのような意識で盤上没我してるようですが
次第にシステムに飼い慣らされ、変わった行くのだと思います。

プロ将棋のマインドスポーツ化を押し進めるのであれば観衆の意識改革が前提となるでしょう。
囲碁は中韓台による外圧によってマインドスポーツとしての意識改革が相当進んだようですが、井の中の蛙の将棋界には難題だと思います。

諸賢お越しやす

みなさま早速御寄稿賜りありがとうございます.

駒音のねぎ様のスレが読めませんので,そちらでの論調とは違うことになるかもしれませぬが,

1.スポーツにも数学にも芸術的な美しさを感じることは出来る.

2.しかしながらそれについて文学的にお互いの感覚を述べ合うのは,ナンセンスではないが,客観的な評価対象ないし売り物には出来ぬ.

3.将棋の評価に勝負の他に芸術的価値を篭める見方をするなら,将棋とは少なくとも純粋なマインド・スポーツたり得ず,純粋なスポーツとしては疑問の余地もある「新体操」や「フィギュア・スケート」に相当することになる.

4.将棋では所詮曲詰めしか,図形的魅力は出せない.それならせめて後2者のように,なにか客観的な評価方法を導入すべきでないか?
なん手かに一度わざと王手飛車や桂馬のフンドシを掛けさせた(掛けられる盤面にする)上で勝つとか?(※)

5.結論 「新体操」も「フィギュア・スケート」も,将棋の盤面よりは,普通に,万人向けに美しい.将棋の価値に美を入れる立場は,将棋を「第二」どころか「第三競技」に転落させるものだ.

※ 参考
「ジャンプの名だけ言っている解説者」(毎日.仲畑万流欄)

将棋の解説も「オーテビシャっ,フンドシっ,ダブル・オーテ,トリプル・オーテっ,あ 転んだ」

overture

不満さま

これまた偶然か、駒音でねぎーずさんが最近立てたスレッドで
(最高レベルにある)将棋の棋譜に芸術性は見いだせるのか、競技なのか技芸なのかというテーマを掘り下げようとしていたところであります。

早々と結論に至ることなく様々な見地から検証してゆきたいですね。
駒音のスレッドと、と金TALKINGで私の知識不足から頓挫してる人工知能の話題とも合流して思わぬ化学反応が出てくるやもしれません。楽しみです。

本論を語る前に、序曲として皆さんにお見せしたい映画の場面があります。

http://www.youtube.com/watch?v=QCnOx4lmnbg

まずは↑こちらをご緩りと御覧くださいませ

それはもう...

...ソフト書きに言わせれば、

「どちらが先に不回避の詰みに持ち込めるかの検索勝負」

...です。

将棋とはなにか?

第1芸術とは なにか ?
 小説、詩、短歌は納得できるとして、囲碁は
 第1芸術とは思えない。 将棋は 俳句 か???
 俳句は もともと 俳諧の発句だ!! 将棋のほうが
 囲碁より 変化は大きいぞ!! (持ち駒使用により)
 あはははは!!! 将棋のほうが 第1芸術に近い! 

ルール

駒音での「連盟はプロ対局のルールを決めるべき?!」によれば、将棋には「公式対局ルール」なるものは存在しないらしい。

これでは「高尚な遊戯」にはなっても「高等な競技」には成り得ませんね。

国際化

将棋の国際化は無理でしょうね

20-30年前になりますが アメリカ駐在時代 オレゴン州の代理店のアメリカ人から 碁が出来るかと聞かれたことがあります ザル碁でよければと何回か勝負しました 韓国の友人とソウルで飲んでる時に 碁の話になり 数回打ちました また 台湾でも数回飲みながらですが打ちました
しかしながら いわゆる外人から 将棋をしましょうと言われたことはありません そのあたりに将棋の限界があります

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