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【併載】米長邦雄永世棋聖 =内心の葛藤=(11)傍らの資料に目を落とすと、米長邦雄九段が第51期名人戦(1993年)で名人位を獲得。 第35期(1976年)第37期(1979年)第38期(1980年)第45期(1987年)第47期(1989年)第49期(1991年) この6期、米長は敗れ続けた。時の名人は、47期の谷川十七世名人以外は、全て中原誠十六世名人である。 私はここで「米長は敗れ続けた」と記した。理由は簡単で、私が中原十六世名人のファンだからである。中原十六世名人は、引退の記者会見で「羽生さんとタイトル戦の場で戦ってみたかった」と述べている。その前にも「羽生さんとは、まだ本当の勝負をしていない」と語ったこともある。その「本当の勝負」を体験したのは、米長邦雄九段であり、中原十六世名人ではなかったことに、寅金氏の言葉を借りれば「むかっ腹が立つ!!」というのが、今でも偽りない私の気持ちだ。 まぁ、それはともかくとしても、七度、名人挑戦者になるというのは、実際は凄いことである。A級で9局か10局指し、場合によってはプレーオフまで勝ち抜いて「挑戦権」を獲得するというのは、ある意味、名人よりも強くないと実現できないことではないか。 このことを指して「勝ち負けよりも生きざまで勝負せよ」と米長九段が言い放ったのであれば、私は素直に頷くことができる。 ---------------------------------------------------- 洒落た、いいエピソードである。 「中学から高校にかけて棋力がぐんと上昇し、中学卒業時には、師匠と平手で指せると思った」と米長九段は同著で述べている。本当かどうか、確かめる術はないので、これ以上は言及しないが、仮にそうであったにせよ、わざわざ口にすることではないのでは、という気はしなくもない。勿論、米長九段は師匠思いである。佐瀬勇次八段が亡くなられた時に、没後「名誉九段」の称号を獲得すべく、米長名人は尽力されたということを、私は関係者から聞いたことがある。そういうことについて、別に私はこれを悪いことだとは、あまり思わない。 米長九段という棋士について、私が抱くイメージは「自虐」である。芹澤九段もある意味、自虐的な人だった。芹澤さんが九段に昇段したときの記念扇子を私は頂戴したが、そこには「八段の上、九段の下」とあった。しかし、芹澤さんには「俺が本当に力を出したら」という気持ちは、最後まであったのかもしれないと、私は思っている。しかし「そんな機会は」谷川七段との対局ぐらいしか、後年は誰も知らない話だ。 例えば中原十六世名人が、内弟子当時、仮にそうであったとしても、米長九段と同じようなことを、例えば高柳名誉九段に対してのちに語れば、まず芹澤九段はそんなことを許さない。「中原は何を思い上がっているのか。お前は師の恩を忘れたのか」と激高必至だと思う。中原十六世名人にとって、芹澤博文という棋士の存在は絶大だったはずだ。 次回、記してみたいが、私は米長邦雄九段に「師匠」はいても「兄弟子」の存在がなかったことは、ある意味、大きな問題ではなかったのかと考えることがある。まぁ、こればかりは仕方のないことなのだけれど。 だからこそ、米長九段は、芹澤博文を意識し続けた。そう思っている。中原十六世の兄弟子であるということも、もちろん含めての話である。
投稿者: JC IMPACT 投稿日時: 土, 07/24/2010 - 02:34 categories [ ]
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