世界の将棋史 21世紀の知見

初度投稿 06/04/2008 - 08:08
改訂 2008/06/05夕 

久しぶりに新しいトピックを立てさせて頂きます。2006年の秋から初冬に掛けて駒音掲示板のほうに将棋の起源をめぐって、当時最も新しかった英語論文のいくつかを紹介しました。それが切っ掛けでいろいろ充実した議論や楽しい想像もできました。しかしながら相変わらずチャトランガを巡って昔の誤った知識に基づく棋士の講演も見られるし、最近の駒音掲示板でも、過去の充実していた議論を知ってか知らずか、それが無批判に引用されています。

幸いその部分は今日現在のところはまだ、同掲示板の延長掲示板の過去ログに今回の騒ぎで消えることなくほぼ手付かずで残っているようなので、保存と将棋史再訪を兼ねて、この新しい掲示板で取り上げて行ければと思います。駒音掲示板は上述のいくつかの状況を見ると、このテーマの議論は事実上できなくなったと考えます。

つぎの方針で進めたいと思っております。
●著作権の問題が明らかでない(ある程度は自分達が新しい模範的慣行を作らねばならぬ立場である)ので、愚自身は愚文以外は丸写ししない。
●資料の部分と、推理の部分、さらには「遊び」、「空想」の部分は明確に分ける。
●なるべくこの1年余りの更なる進歩を確認する。ただし直接著書を入手することは費用、手間の関係で困難があるので、主にインターネット上の論文による。(愚の分野ならば審査が無いと載らないいわゆる電子雑誌がいくつもあって、単行本はもちろん活字雑誌に劣らず信用できる時代です。)
●愚としては、当面チェスとシャンチーの起源と、それとチャトランガの関係の資料提供から入ります。少なくとも日中ないしアジア友好に関る棋士が誤った知識のまま不用意に日本や中国の国際場面で講演されるのは好ましくない。特に最近の中国人にはこの分野の著名学者も出ていますから、気付かれたら国際問題にもなりかねません。

ちなみに愚自身も中国での国際会議でこの問題に触れたことがあります。自分の論文が中国語に訳されて居るのを見ると、なんだか自分が大層立派な学者になったようで、不思議な気分になります。「漢文」そっくりなもんで!

なお多くの人にとっては日本の将棋の直接の祖先のほうに興味が有ると思います。残念ながら愚自身はこれについては新しい情報は何一つ持っておりません。じつは昨年西安(昔の長安)の博物館への調査行を計画しましたが、外務省の旅券課のミスで出国できないという呆れた事故に遭い果たせませんでした。

投稿者: 歩曼陀羅華 投稿日時: 水, 06/04/2008 - 08:08 categories [ ]

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確かに

当時調べた楚辞補注の解釈では、象牙の箸をサイコロ代わりに使っていたと記憶しています。
鶴間教授の指摘はサイコロと、象牙の箸は別の用途(易でいう算木)で使われていたという内容で、
我々にとっては新説だとは思います。
それでも中国語、英文の俗説、幸田露伴の論評等、個人で探求できることも、まだまだ、
ありそうなので、細々と将棋史探訪は続けてみたいと思っています。もし、気が向いたら参加/論評
情報提供などお願いします。

竹箸と象牙の箸

水晶の兎様から御紹介いただいた掲示板の記事を通読しました.『続』の冒頭で気になったのが,竹箸が点棒だということ.

宮廷の六博(元字は竹冠があった.)の情景には,象牙の箸を六度投げ,(駒を)六度進める旨歌われていたと思う.楚辭の「篦蔽象棋有六簙些」の後ではなかったか.

これについて確認したことは,箸にはサイコロの意味が有り,少なくとも上の場合には箸は,(もしかしたら韓国将棋風に棒状の)サイコロだった.

当時多分筒井氏の紹介で,ネットで原文に当たっただけでなく,(私が客座教授をしている)中国の大学の仏教史および仏教哲学の助教授(大谷大学で博士を取られた中国人学者)の協力も頂いて再確認もしたことだった.(日中の学術交流を推進し,学術・文化交流史を研究する部門のメンバー同士.)

この頃は駒音掲示板の多分裏の話題にして居たので,今過去ログを当ってみたが,古いページはアクセス・エラーが出るし,検索機能もなにやら変なので,サルベージすることは一旦取りやめた.

いずれにせよここしばらく,中国を訪れて居ないし,中国と将棋ないしチェスの発祥についての調査(中国人学者側の見解を含む)も,外国人の西安(唐長安)訪問が時期尚早だったこともあり,調査行にさまざまな障害が起こって結局成果が得られなかった事件以後,愚としては,専門外なので,中断したままになっている.おそらくこのまま機会を見て次の世代に委ねることになりそうだが,折角旗を振り始めて居たのだから,今考えて見ると惜しむべきかもしれぬ.

参考資料

はじめまして

いや~、将棋の歴史は思ったよりも深くて難解ですね。情報提供大感謝です。

中国での通説、俗説

中国語版wikiによると、象棋は中国版双六から独自に発展したものであり、チャトランガは、インドに伝播した派生型であるという説と、チャトランガの移入により、北周象棋、唐代の寶應象棋を経て北宋の現代的象棋になったという説が有力らしい。
北周象棋は文献上は、既に詳細不明であり、南北朝時代の北周(557年—581年)に行われていたが、隋(581年—618年)の初代皇帝楊堅の禁ずるところとなり、唐代(618年-)には身分の高いもので知っているものは皆無となったとされているそうである。禁令が出たということは、これは賭博性の高い、双六のようなものであったと思われる。
ついで、寶應象棋が生まれるが、これは唐の寶應年間(762年—763年)に存在を確認できることからついた名であり、一般的に現代中国象棋の祖とされているということである。なお、寶應象棋では書き駒ではなく、チェスのような立体的な駒が使用されていたということである。

「将棋脳」スレ立てました

将棋脳
http://www.tokinclub.com/dp/node/839

>「将棋脳」トピックを立ててください

まーくん様、と金倶楽部へようこそです。登録した会員はスレ立てする権限がありますので(今回は我が処理しましたが)遠慮なくどうぞ。

将棋ソフト書きはじめて問題の深さを思い知らされ、我の知識の浅さを呪う毎日ですが出来る範囲で返答させていただきます。

「将棋脳」トピックを立ててください

歩曼陀羅華さん

お久しぶりです.

えーーっと,ご見解をお聞かせいただきたいことがあるので,是非,タイトルのスレッドを立ててください.
掲示板の主催者さんが将棋ソフトの開発者とのことですので,開発者からのご見解もお聞かせいただけたらと思います.
将棋ソフトに関することで,主に分散処理の効率と評価関数,機械学習の効率等に関してです.

ここに質問内容を書いても良いのであれば,その旨,お知らせください.

その後のチェスの起原研究

花村九段で別欄が立ちましたね.切っ掛けになったと見られる駒音の議論も頭休めに覗いているとときどき面白いことが出て来ます.

どういう経緯か最近「将棋脳」という議論が出かけたのに,薦められた方が結局スレ立てしなかったことがあります.これなどもこちらでやった方が楽しい議論が出来るかもしれませぬ.オーナー様が「人工将棋脳」の開発者で有られるからには.

それで,様子を見てスレ立てしようかと思っていたら,今度は将棋史が出てまいりました.日本将棋の起原については(「空海説」以外に)愚が出る幕は有りませぬが,相変わらずチャトランガ(それも四人制?)が将棋の起源だと書いている有り様を見ると,ほかの議論の論拠も全く信用する気が消え失せます.羽生さんの講演も冒頭でこれを聞いた途端にずっこける.

「将棋脳」トピックはオーナー様が立てられることに期待して,愚は,今見たら45週ぶりになりまするが,チェス史をポツリポツリ再開することに致しまする.

IGKがその後どうなったかをネットで調べましたが,なかなか新しい論文に辿りつけず,やっと発表年次不明だが引用資料から2006年8月頃に執筆されたことが窺える次の論文を見つけました.あまり言いたくないけれども,ネット論文とはいえ日付が無いことが,この種の学界の実態を表していると考えます.

http://www.goddesschess.com/chessays/johnayer.html

この論文の要点は,2つの図になっているチェスの「従来の系統図」と,新しいそれとの対比で,一目で理解することができますから,それだけでもご覧になって下さい.

さて「従来の系統図」では言うまでもなく,

チャトランガ → 東南アジア変種
       → シャトランジュ・中世チェス → 中国将棋 → 日本将棋
                                    → 韓国将棋 
                          → 近代欧州チェス
                          → その他(略)

「新しい系統図」では, 
原チェス → シャトランジュ-アル 
      -カミル Ver.1 → 初期中国将棋 → 中国将棋 → 韓国将棋
                 → チャトランガ
                  ・シャトランジュ
                  ・中世チェス   → ビルマ将棋
                            → ラウフェル戯
                                       → 近代欧州チェス                         
                            → その他(略)

ここでは→が上手く描けませんが,近代欧州チェスはチャトランガ・シャトランジュ・中世チェスの直接の子孫でもあるが,ラウフェル戯なるものの要素が混じる.

さて問題の日本将棋は?

ビルマ将棋と初期中国将棋の混血とされる!

初期中国将棋というものの正体は未だ読んで居りませぬが,ともかく日本で広く流布されて来た説とは,正確には一致しない.

しかし愚にとってもっと大事なことは,前々から強調して来たことと合致しているが,チャトランガ(8世紀インド)如きは系統図の3代目に過ぎぬことで御座います!!!

シャトランジュ-アル-カミルも,未だ読んで居りませぬが,ペルシャ~中東世界の響きがあるので,以前ご紹介したクシャン説との関係が興味深い.

本業とブリッジ他で超多忙なので,続けて御紹介は出来ないかもしれませぬが,皆さまのお付き合いを期待いたしまする.

中国古典に見る象棋

駒音で楚辭の「篦蔽象棋有六簙些」,說苑の「而諂諛 燕則鬥象棋而舞鄭女」を取り上げたことがありました.この掲示板で,そろそろそこらの再発掘に掛ろうとしたあたりでコンピューターが壊れたのでした.残念ながらもう正確な読み方も忘れました.

今回桂馬の動きの起源をネットで探していたところ,それについては天文儀説以上のものには未だ出会いませんが,偶然つぎの論文に上記の辞(詩)句が引用されて居りましたので,取りあえず論文のリンクを貼って置きます.

冒頭,1997年にIGKシンプジウムで話したことを論文にしたと有ります.(著者もネット掲載の時期も現段階では不明ですが,97年の講演プログラムはIGKサイトに有ったはず.)

http://www.banaschak.net/schach/origins.htm

クシャン説で最重視されたリューボ(六簙)についてもかなり詳しく書かれているようです.

桂馬の祖先は惑星だった!

イマジン様>桂馬の動きは、不思議な動きですよねぇ。

どんな発想から生まれたのでしょうかね? (駒音掲示板 駒音川柳11 2009/08/02(Sun) No.6429)

クシャン説(当然その前身の一つも)ではバビロニアの天文儀から来ている.つまり天空上の惑星の動きを駒のような物の移動で表す場合,速度の遅速で1マスか2マスか進むものがあり,

下図の中心の■から見て全ての方向を網羅するならば(上下左右1①とフツーの斜め③は当然必要だし,初期のチェス駒としても実在した.),桂馬跳び②が必要になるし,惑星の動きは全て4方か8方か対称性を持つ(等方的)べきことも当然.

□ □ ① ② ③
□ □ □ □ □
□ □ ■ □ □
□ □ □ □ □
□ □ □ □ □

ナイトの動きの起源についてはいろいろな説~説話を見た記憶が有りますが,最近どうなっているかちょっとネト繰って見ませう.

こういった多動駒(愚の分類名)を歩(前進駒[同左])に近いものに矯正限定した日本人というものは,「駒の再利用」と別の意味で恐るべき民族なのかも知れませぬ.羽生氏の本の中に,動きが少ないのを「駒の再利用」で補ったのではないかという一文が無かったでせうかね?となると「動きの制限」こそ日本将棋の原点?!

本格的に将棋史論を再開できる目途は立ちませぬが,しばらく気分転換に気楽に議論をして参りませんか.

パリ戦

やはり美麗なる鎧武者の駒が欲しい。

関心がずっと違うかも、、、?

祝意感謝

(まだパソコン環境が再構築できないことと,さらに将棋関係のファイルの復元がどうやら無理の模様なので,本筋はもうしばらく休ませてください.)

チェス・プログラムが弱いという説が駒音掲示板でもありましたが,70年代初頭でも相当に強かった.ただし当時はパソコンどころかミニコンでもなく普通のコンピュータではありました.その後は,…,結局コンピュータと本気で指す気力など無くなりました.

駒の動きが大きいので,読みにくいという説もあるが,退屈な機械的な読みに精神的に慣れている「碁打ち」系の研究者は,読めると豪語したりしますね.将棋練達者のセンスは侮りがたいと思うので,もう少し様子を伺えたら面白そうです

後,ちょっと別の見方をすると,このごろのチェス・ソフトは,わざと弱くしたり,確率的にわざと最強でない手を混ぜてくるものもあるようです.エール・フランセの中のチェス・ソフトなどは昔のほうが強かったような.すくなくとも今のはお子様レベル.

日本の一流棋士が本気で転向したらどうなるか?片手間で指している限りは,最近の羽生でもフランス辺りの無名の指し手に簡単に負けてますが.

なお駒音にも1,2度書いたことですが,仮に日本将棋がゲームとして世界を席巻する時代が来たとして,羽生が(今の力のままで闘うものとして)世界チャンピオンになれるか?じつは絶対無理とは言わぬが難しいと見ておりまする.すくなくともトップ地位の中長期的持続は不可能ではないだろうか?理由を端的に言えば,技術や知識のほかに,体力を含めた闘争そのものの基礎能力(さらに国際的な政治的交渉力まで問われる!)が日本人には乏しいから.風小僧さんなんかどう思われるかなぁ.

祝100レス!

シャンチーのルールがのみ込めず実戦?とサイトを探していたらチェスゲームを発見。
最弱アマ8級程度で勝つもののどうも手が見えん。

将棋とは全くゲームが違うものか?
森内、佐藤も?に転向を勧めるご意見もあったが世界では完全に引退、転向しないと無理かも?
彼らは強いそうじゃが相撲で言うと小結、、、?
世界の人数で言うと十両やっとかも?

象棋でしたか

パッと見,まさか中国将棋だとは思いもよらず,チェスだと思い込んでいました.改めて見ると九升.それなら大珍品なわけです.

紀元前3世紀には実態はともかく「象」戯というゲームが行われていたので,象は象牙の箸(長いサイコロ)と駒から来たのか,形象の意なのか,象論争がはじまるとこれだけでも難しそうです.

先月トリノの商店街での昼休み時間に,店の前で中国人店主が孫らしき坊やを相手に中国将棋を指して居たのに出会いました.いい情景でした.結構まじめに考えていたようにも見えたし,ゆったりとした雰囲気に浸っているようでもあった.

駒は結構大きかった.麻雀の下駄パイのようなもの.あれなら吹いても飛びませぬ.

バトル・チェスすっかり笑ってしまいました.最初駒の見分け方がよく分からず,ついて行けませんでした.かなり新しい序盤ですね.これを今の画像技術を使って再現したら,楽しいでしょうね.「黒革の手帳」版だと米倉涼子VS釈由美子.(駒音版だと…)

駒の写真

当方が投稿したバンベルグの駒に関し、何人かの方が感想を述べられている。本写真を投稿してよかった。もっといろいろな角度から何枚か写真を撮るべきだと思う。

この写真の撮影日時は、2008年4月18日である。当時本サイトでお宝写真を募集していた。そのお宝写真にはどうか、と思い一枚だけ撮影した。

本スレを教授が建ち上げられたのは、本年6月であった。それまで小生は、世界の将棋史にまったく無頓着であった。要するになにも知らなかった。

さらに日本語の説明だけでなく、英語やドイツ語の説明書をみて、「将棋」に該当する語として、どのような単語が使用されているか調べてくればよかった。

追記
もしドイツに行く機会があれば(今のところ予定はないが)、バンベルグにいって、、「将棋」に該当する語として、英語やドイツ語では、どのような単語が使用されているか調べてきたいと思う。

バンベルグは、ミュンヘンからIC(Inter City)で2時間ぐらいでいける。

ムム!なるほど!

シャンチーも9人か?馬、車はそのまま。銀が糸車のよう、と言ったが象とすればその上に座席か輿をつけたようにも見える。士はたしか真ん中のマスから出られぬ卑屈な従者と言う感じも出ている。

卒、兵が予備に4体あるのは多すぎる、やはり将棋?かと思ったが案外将棋の駒として作ったのではなくシャンチーの駒を兵、卒を9体にして将棋として売り出そうとしかのかも知れん、、、?

飛車発見

「砲」の形をした飛車(であろう)駒を発見。角は他の駒に遮られて確認不可。

(追記)ん???ちょと待てよ。「砲」といったらシャンチーじゃないか(駒の並べ方もそれらしいし)。ひょとしてこれはシャンチーの駒で、横に並べてある「兵」は別のセットからの余りもの?

白磁、青磁

よく見るとなかなかに興味深い。
銀は糸車のような、香ははと車のような桂はチェスのナイトそのまま。
下はチェス板がそのまま使われている。
飛車、角がないが飛車&竜王、角行&竜馬からどのような動物か想像できなかったのかも知れん。
金は宦官のような坊主頭が横を向いて頭金で詰ます重要な駒とは思えない。

時代は戦後と思われるが関係悪化以前の明治大正期も考えられる。
歩は清代の歩兵のよう、とんがり帽子が面白い。

多分駒の動きもルールも分からぬ中国人が作ったものであって、しかし文字駒を理解せぬドイツ人がこれが本物の将棋と思い展示した可能性はある。

中国からの駒

拡大写真をみると、白色の駒と青色に着色された駒とは対称になっていますね。今まで気がつきませんでした。

日本語の説明ではその駒は、「将棋」となっていましたが、英語の説明では、「Chess」となっていたような気がする。ドイツには[Shogi]という言葉がないようの思われるからである。

訳された方が「Chess」を「将棋」と訳したのだろう。英語の説明を見てくればよかった。

バトルチェス(Battle Chess)

一昔前にこんなチェスのプログラムがありましたのう。戦闘シーンは3:00辺りから開始します。


立体駒

白磁と青は青磁のようにも見えるが?両方の技術とすると値もはるかも知れん。

駒は美術品としての価値もあり欧州には本当に美しいのもある。
ローマ兵士風、中世の騎士など欲しくなったらきりがないような?
ワシは将棋の駒は一つだけ、道場の賞品で貰ったものでプラではいいものだが本格的駒を持つ気もない。

なるほどpcなら色も変えられるようじゃ。
自由な発想があっても良い。
立体駒でも子供用に熊さんとライオンも良いし、家康対秀吉、清盛対頼朝が考えられるが?
紀香と米倉涼子で負けると水着になるなんていうのもいいのう!
天童だけに駒の生産を任せるのではなく地方産業の発掘になるかも知れん。

陶器の写真

下の写真は、同じバンベルグの市立博物館で撮った陶器の写真です。日本語の説明は
見てきませんでした。この陶器から判断して、将棋駒も陶器だと思います。

(webMaster注)クリックで拡大

白磁でしょうが時代は?

この写真は一眼レフで広角で撮ったのですか?今だとデジカメかな.見事に撮影されていますね.

チェス駒が中国で作られるようになったのは,輸出と居留民のためでしょうから,早くて植民地時代の先駆けの時期ではないでしょうか?

3人チェスもなんとも面白そうですね.以前ダイナマイト様が4人制チャトランガ(チャトラジ)をめぐって指摘されたような意味で,楽しみ方の幅が大いに広がることでしょうね.これにサイコロによる偶然性を取り入れたら,ますますそうなるわけですね.

将棋駒の立体化については駒音掲示板でも大分議論しましたね.後で少し発掘を試みます.私も含めて当時出なかったアイディアとしては,コンピュータでやれば色を変えることを含めて自由自在だということがあります.最近のコンピューター・チェスの画面は素晴らしいですから.

ついでにエロティック・チェスなんてのもあるが,アダルトという意味でなく,紀香と米倉涼子を女王にして大画面で指してみたい.将棋の場合,空港で土産用に売っている顔絵の将棋駒の源平版で,静御前と常盤御前は何になっていたのだったかしらん.

白磁かな?

宋代で盛んになった白磁のように見える、、、

欧州では立体駒が普通で東洋の文字駒は合わん、それに文字は各国で翻訳すると言葉が違うので混乱の原因にも、、、

本当に普及させる気があるのなら立体駒の開発が必要か?
王様もどう見ても中国風、、、金は戦うと言うより侍従か宦官のような?
成りは台に何か印をつけることで解決可能か?

バンベルグ

バンベルグは、日本の京都や奈良と同じで、第二次世界大戦で被災しなかった。

バンベルグは、レグニッツ川を境に旧市街と新市街とからなっている。

新市街は、ドイツの他の都市と変わらない。旧市街は、2~3百年経った家並みが残っていた。

将棋駒が陳列されている博物館は、レグニッツ川の真ん中に建っていた。両側から橋が架かっている。

バンベルグには、ドイツ各地から団体の観光客が多く来ていた。その団体の観光客は、市の職員と思われるガイドの案内で歩いて旧市街を観光されていた。そのガイドの1人(女性)に当方は頭を下げられた。

日本のある旅行会社が企画した日本人団体観光客と出合った。その日本人団体観光客は、いずれかの都市からバスで来て、バンベルグで食事し、旧市街の古い町並みが見える高台で日本人ガイドから説明を聞いていた。いずれの建物の中にも入らず、次の都市に向かうようだった。

観光用インフォメーションセンターがあり、そこで「バンベルグ」という日本語の説明書(6ユーロ)がおいてあった。

朝、バンベルグ駅へタクシーで出発した。banberg stationと英語で言ったつもりが、当方の発音が極めて下手で、連れて行かれた先は、観光用インフォメーションセンターであった。

陶器かな?

なかなか見ることの出来ない珍しい画像の投稿、感謝感謝です。

光沢、黒側が青色に彩色されている所から見て、陶器かもしれません。

中国からヨーロッパに輸出された陶器(主に食器)にこの色系の青で彩色が施されていました。

中国から輸入された将棋

下の写真は、ドイツのバンベルグの市立博物館に陳列されていました。ガラス越し
なのでうまくは取れていません。

博物館には、日本語の説明があり、その写真は、将棋(中国将棋ではない)となって
おり、中国から輸入されたとありました。輸入の時期の記載がありませんでした。材
質は、大理石のような感じがしました。

(webMaster注)画像クリックで拡大です。

三人用チェス

愉快だったので歴史とは関係が無いですが投稿しまっす。

あれっま

>投稿環境に故障が生じてしまいました

いち早い復旧をお待ちいたします。

お断り

そろそろ先を書こうと思っていたところ、投稿環境に故障が生じてしまいましたので、このまましばらくお休みします。

前回御紹介した甲骨文字のリンク先は、書家のサイトなので、それだけに分かりやすいけれど、無論もう少し学術的な印象のものもあります。それは壊れたパソコンのほうに入っていて復元不可能ですが、またネットで見つかれば、掲載します。

甲骨文字の実像

銀碩学様ほか,問題の御指摘等有難うございます.これからも活発な御議論や御教示を楽しみにしております.とりあえず一,二.

●甲骨文字は占いをした亀甲そのものに文章を彫り込んだのが原点(あるいは原典というべきか)とのことです.本コメント末尾のリンク先に,初期の典型例と,解説が有ります.

●いわゆる易姓革命思想があるので,中国の王朝は必ず先朝の史書を編纂し,王権交代を正当化した.今回の本はヨタ話かもしれないが(♪),問題意識としては,その見方を殷と周との関係についても適用し,ある程度実証できたとするつもりかもしれませぬ.

●広い意味で,白川氏らの同業者として,新しい研究には共感を持ちます.(チェス史も同様) 今回の場合には,宮崎氏との比較ではつぎの諸点が上げられましょう.

1.考古学者と歴史学者の違いに似たものが有りうる.
2.白川氏のほうが数年若い.通常は後の世代の方が視点が新しく,学力も高い.(ピタゴラスやユークリッドやアルキメデスより,私の数学や物理学の知識が「優れて」いることに通じる! 教授より助教授のほうが学力が高くないようでは困る.新制度の准教授はそうとは限らぬかもしれませぬがなあ?)
3.宮崎氏は京大で君臨,白川氏は立命館に拠った.影響力や権威の差は割り引くべき.

ただし,今回の本と白川氏との関係は,未だ確認しておりませぬし,そもそも殆ど知らなかったテーマなので,皆様と議論しながら知識を深めたい段階です.

http://images.google.co.jp/imgres?imgurl=http://www.yohseikai.com/W-285....

♪ 重村さん(静岡大?→早稲田)の「金正日は死んでいる」本の評判は,その後どうなったでしょうか.

夏桀殷紂

一度HNにしようと思ったこともあるが、、、誰が読んでくれるのか疑問で中止。極めて温厚ながら酒と女性と裸は好き、というより一人の時、ビーチでは服を着るのが面倒くさい。

なんとなくwikiを見たが殷紂は普通の人、という説も?
家康が豊臣政権を乗っ取った、という庶民の感情があれば仮に数百年たって記憶がなくなった頃に秀頼と秀次と混同し、家来を何人も殺したとか女性をどうしたかと説を作り乗っ取ったのではなく、悪逆非道の人間を正義を守るために止む得ず立ち上がり滅ぼした、正義のヒーローという役割が良い、という事はありうる。

ウィキは読者が書き加えて作るもの?参考にするには良いものか?伝統的歴史史観からするとやや違和感があるが、、、?

東照大権現

政権をとればその創始者を神格化するのは普通であり、そして前政権の神格化を否定するのは当然。神様が二人居ては困る、、、

酒池肉林というのは政治を何もしないで酒色にふけったという意味でその政治そのものを否定する。家康は統一後現実に秀吉の家臣となったのであり五大老筆頭、後の大老のようなものでそれを否定すれば家康自身を否定することとなるよ。

前政権への復讐

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89

『死後、京都東山の阿弥陀ヶ峰(現在の豊国廟)に葬られ、豊国大明神として豊国神社(京都)に祀られたが、豊臣家滅亡後、徳川家康により大明神の号は剥奪された。この時、建物も破却されることになりかけたが、秀吉の正室であった高台院の嘆願により、外苑部分は破却されるが内苑(本殿など)は残されていた。この際に建造物の一部は片桐且元らによって宝厳寺や都久夫須麻神社等に移築されたともされる。その後三代将軍家光の時代幕府により社領も没収、社殿などは次々と破却、あるいは解体処分とされてしまい、豊国神社の敷地は荒れるがままであったと言う。』

天下を手中に収めた徳川家にすれば前政権の秀吉を「神」として祭るのはもっての外。その存在を否定するが如くにやりたい放題… そして家康本人は(秀吉の真似?)死後「東照大権現」の神号を贈られる。

疑問百出、、、?

>周王朝正当化
まず一度政権をとれば前王朝を非難し貶める必要など一切ない。家康が足利政権が悪かった、とか豊臣が悪逆非道などという必要もない。

>酒池肉林
これは後世の言葉で殷の時代にそのようなことは言われない。単に女好きで酒を飲んだというだけのことでこれは誰にでもある。ただ悪政で評判が悪かったからこう言われただけの事。

大奥と比べてもせいぜい数百人で可愛い物だったかも?
晋の武帝は後宮一万人といわれた。毎日一人でも30年!!!これは商売人の玄関先の置き塩?の発生として有名。

>甲骨文字記録
なんてものがあるのは知らなかった、、、が?、、、
歴史資料として認められているものなのか?
第一、亀の甲羅や骨にまとまったことを書けるものか?
骨なんてすぐ折れるもので形が今まで残ってるはずもないこと。
周になって竹簡が工夫され始めて保存に適したものが出来たはず?

>白川静
というのは知らなかったが漢字学者、漢文学者とすると歴史についての考察が足らないのではないか?
甲骨文字なんていうのは象形文字の発明として意味があるのであって後世の漢字のように歴史とか人間とか抽象的なものを記録するほどには発達してないはずだが、、、?
歴史を研究していない学者がムリヤリ専門外のことを認めさせたような気配はする、、、?教授も、、、?

>研究者以外でも
なにやら怪しい名前が一人入って居るがやはりwikiは信用できん、、、?聞いた事もない。
シルクロードで図書館に行ってみたがBritanikaはなかった。平凡社なら信用できると思うが?

間に合いましたので一筆

銀様 御指摘感謝

私の要約文にも一箇所端折り過ぎでミスが入ってしまいました。周はいうまでもなく殷の次。(だからこそ周王朝正当化説も一定の説得力が生じうる。)尚書、詩経が殷滅亡(周成立)数世紀後。

今回のキーワードは甲骨文字の「先王の祭祀記録」で、これには膨大な数があるという。それによれば紂=帝辛は先王の祭祀を良くしていたが、「酒池肉林」に通じる甲骨文字記録は一切無い。

その精緻な読み解きには、日本人研究者の功績も大きかったが、中国ではその成果が殆ど顧みられず下火という。

この辺りが、いろいろなことが考えられて、面白いところです。

白川静といえばビッグネームですが、その正統的継承者はどうしているのでしょう。

御教示いただいた宮崎市定の名前はおぼろげながら知っておりましたが、ウィキに次の記載があるのがまた面白いです。

…また研究者以外でも、司馬遼太郎・谷沢永一・向井敏・松本清張・米長邦雄などがの研究を引用している。

甲骨文字、

甲骨文とも。亀の甲羅(腹甲)や牛や鹿の骨(肩胛骨)に刻まれた (wiki)

>甲骨文字の原典をいくら読んでも、、、
そんなもの自体が存在しない。占いのためとされている。

新説、奇説、珍説はいくらでもあるがすぐ消える。
古くは源義経ジンギスカン伝説、新しくは最近のtvでもやっていた秀頼九州薩摩生存説、信長は生きていた、というのもあったか?

>周は殷滅亡後数百年後の王朝。
殷滅亡後直後の王朝であってこれも誤り。

初学から間違いがあるがそんな本を読むより宮崎市定をお勧めする。大体において間違いはない。

新説ではないが源頼朝の死因については諸説ある。調べてみると面白いかも?
しかし殷チュウにせよ結局はタイムマシンでも発明されない限り決定は出来ない。家康は死んでいた、なんてのもあったが切りがない。

甲骨文字と史記

『白川静さんに学ぶ ― 漢字は怖い』(小山鉄郎、共同通信社2007)という本の冒頭でいきなり、将棋にもそのリューボ由来説にも縁がある「王」の字の『設文解字』(紀元百年頃)の説の誤りが指摘されています。

漢字はご存知の通り殷の時代に出来た。『設文解字』はその約千年後に書かれたものだから、その又2千年近く後の現代になって、甲骨文字そのものの出土品も増えて、その科学的研究が進めば、紀元頃のさまざまな解説が「説話」に転落するのは当然のことです。

『甲骨文字に歴史を読む』(落合淳思、ちくま新書2008)は未だ入手できておりませんが、その海部評(毎日新聞8/31)の見出しは、

「殷の紂王の酒池肉林は作り話だった」

司馬遷が史記(銀様が言及しておられる)を書くときに参照したのは周代の『尚書』、『詩経』(ご存知の通り孔子が編んだとされる)だが、現代になって、甲骨文字の原典をいくら読んでも、そんな気配は微塵も無い!

周は殷滅亡後数百年後の王朝。歴史を改竄して、周王朝の正当化をしたと見るべきだというのです。

[お断り]国際委員会出席のためしばらくお休みします。日頃の御愛読に感謝申し上げます。

天童、ペシャワール会、史記

WEBマスター様 コメント有難うございます。

このページは、駒音掲示板で議論していたころ、天童にお小遣いで「無剣」(裏朱)を発注したときに見て居て、インド起源説を無邪気に信じているのは無理からぬこととして、イタリーの人間将棋にも触れていたことで、印象に残っています。

なお大分以前中国人によるサイトも御紹介いただきましたが、その方は香港と大阪に拠点があるようで、内容は、日本の通説であるインド起源説そのものを中国語にしたものですね。

ペシャワール会の伊藤さん(31)という農業青年が、悼ましくも27日にアフガンで殺害されました。ペシャワールは以前書いたようにパキスタン領内。北西の縁に近い。

1947年までパキスタンはインドの一部だったから、仮にヨステンのクシャン説が正しいとなっても、それもインド起源説だと言い張る人が、まだ当分日本の人口の中に居るかもしれません。

昭和30年代でも、たしか中学や高校の先生方は、パンジャブ、カシミールなどはインドの一部であるという認識で教えていたような気がします。カシミール問題で争った第3次印パ戦争は1971だった(ウィキ)。

医学の定説は、メタボ問題のように案外コロコロ変わるし、その医療への反映も素早い。しかし歴史の通説が、見直されることにも、その後社会全般に浸透するまでにも、それぞれ長大な年月が掛かります。

次稿では「史記」の大嘘なるものをご紹介します。(もちろん受け売りです。)

将棋の原形

http://www.yomiuri.co.jp/tabi/domestic/japan/20080428tb01.htm?from=nwla

記事は天童市の紹介ですが、目に止まったのでメモります。

『古代インドで生まれた将棋の原形が世界各地に伝わり、今では数十種類の「将棋」に発展している。』

中国起源説について

銀様 コメント有難うございます。

リー教授の韓信説は、紀元前3世紀末に、中国将棋の原形が出来たというのですね。それは単なる「奇説」か?

そうかもしれませんが、多分読む機会が有ったら信じたくなるほど良くできているだろうと想像します。日本に多数ある邪馬台国論争も、それぞれの専門家が、それぞれの知識と思惑を元に執筆すると、一般読者は、そういうものかなあと思わされてしまう。

ロマンとして、韓信説でなくとも中国説は捨てられないものがあります。

ヨステンのクシャン統合説は、紀元1~2世紀に中国のリューボとインドのレース・ゲームにメソポタミアの天文盤のコンセプトが加わって作られたというもの。このほうが時期を考えると、少なくとも韓信説よりははるかに無理が少ないことは否めません。

それで私としては、リューボが、チェスの発明に中心的に貢献したのであれば、中国起源説としても十分だろうと思っているわけです。

すると、リューボに中央駒(梟)が入ったのは何時か。それに韓信は絡んでいないかということが興味ある問題になって来ます。

ここらは、恐らくまだはっきりしていないところです。韓信にしても、梟(将ともいう)と6個の歩くらいなら使ってみたかもしれませんし。

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論語を読んだことがおありか知らぬが多少は知っている筈。すべて「子曰く」からはじまる。

数百年経ってから昔の人の言葉を覚えているはずもなくそれを直接聞いた弟子の編纂というのが普通の常識。
例えば今家康はこう言った、吉宗はこう言った、などという本が書ける筈もなく全て伝聞の伝聞となる。孔子がどこへ行ってどういうことがありこう発言した、などというのはそれを実際に見た人でなければ書けぬ事。これは孫であっても同じ事。どうも近代の学問は古の常識を学ぶことなく仮説を無理に押し通そうとする感じがする。

例えば先の大戦でも学者がこうであった、とあたかも見たように書くのは間違いで戦後生まれの学者ならこうであったと聞いた、、、という記述でなければ嘘になる。歴史は時代が進むにつれて発展する学問ではなく衰退する学問かも知れん、、、

張騫はワシも忘れておった。それが発生とすると秦代は誤り。しかし全財産を運んで利を得る、というのは通行が安全と保障される平和時に限ったことで戦乱時はそのような通商が停止するのは当たり前。わざわざ盗られに、殺されに中国まで行く馬鹿は居ないよ。但し多分じゃが漢代は農本で商業が発達したのは唐代か?という印象はある。シルクロードがあっても細々したものではないか?

但し唐代には色目人としてイラン人が多数存在していた事は歴史的事実。
「葡萄の美酒、瑠璃の杯」(琥珀だったかも?)という詩が残っている。それまで中国に存在しなかったワインとガラス製?のグラスが入って来たことを示しておる。

追記;
またまたうっかりして居ったがカンシンは漢の前の時代で漢になってすぐ殺された。張騫はその約一世紀後つまりカンシンの時代はシルクロード発生以前だったといえる。。。

農本とは農業本位でつまり商業が大きく発展する以前の時代。日本で言うと鎌倉、足利くらいか?大きな会社がない農業だけの田舎の感じ、、、

葡萄美酒夜光杯  
欲飲琵琶馬上催  
酔臥沙場君莫笑  
古来征戦幾人回

ちょい訂正。改めて読むとなかなかの名詩。詩の本意は最後の辺境の守りに来ても故郷に帰ることなく一生を戦場に過ごす運命を嘆く、という説あり。

張騫はバクトリア王国に行った

クシャン王国の中心に当る現アフガニスタン(首都は現パキスタンに数十km入った所)に、その前はギリシャ系のバクトリア王国が有った事は以前書いた。

シルクロード文物展(今年1月)の出品物の中に、敦煌の壁画の模写があり、張騫(ちょうかん)が漢の武帝に見送られて99人の供を連れて出発する(138BCの)情景が描かれている。

http://abc0120.net/words/abc2008010905.html

この使節団の目的は匈奴に圧迫され続けていた漢が、その内紛の情報を得て、月氏(または大月氏。端的に要約するには私の理解が足りない。史記その他に記述がある。)と組んで挟撃しようとしたもの。

張騫は、行きも帰りも匈奴に捕まるし(抑留は十年に及びそこで結婚して子供も出来る)、現在のタジキスタンに居た月氏から挟撃同盟は断られたものの、ともかく武帝に復命できた。帰ってきたときは従者は2人になっていた。

使節としては実らなかったが、中国政権が西域やチベット、インドについて知識を得て、その方面に向かう経営に乗り出したのは、これが切っ掛けであり、やがて西域各国から朝貢されるようになった。

つまり、それより200年も時代が下るカニシカ王朝の頃(後漢)には、中国側がすでに積極的に接触・交流していたものと考えられることになる。

チベット問題も、この時代まで遡って、支配権の正統性を主張しているのかもしれない。

シルクロードは漢代の114BC頃出来た!

シルクロードの年代も識者から疑問を呈されて調べてみると、これまた難しいことが分かった。

秦漢からとする日本語ウィキは信用できぬとしても、ブリタニカON‐LINEは理系ではなかなか買えないし、図書館で見るブリタニカだとちょっと古いかな(今の大学は毎回改訂版を買えるわけではない。一つには予算をより多く持っている理系側は中央図書館には冷たいので、こういうときには自らに返って来る。)と思う。

それで、結局いつものようにまずは英語ウィキから。

張騫(195BC―114BC*)のミッションと開拓によるとする。それに基づいて表題のように「正確な」年度が書かれている。漢代の探検家にして外交官だったこの人物の事績はある程度確かなので、その没年頃には出来たというわけ。

無論それ以前にある程度の交易路として成立していた。

シルクロードの物流の実態は、西安(唐の長安)から地中海までの8000kmを一回で通ることは滅多に無く、各商人(巡礼、僧侶、軍人、遊牧民、都市住民も通った。)は、賑わうオアシス町の市場から市場へと(局所的に)品物を運んでいた。

* http://en.wikipedia.org/wiki/Zhang_Qian (肖像あり)

論語は紀元前5世紀か

銀様のご指摘について、さらに調べました。昔から有っても全然おかしくないが、比較的新しく有力になった気配があるのが、孔子の孫の

子思(紀元前483年?-紀元前402年?)

によるとするもの。

こちらの方が納得し易い。ただし子思にしても孔子(紀元前479年没)に会ったことは無かった。

論語の成立過程については、おそらく将棋史より本格的な研究者が大勢居るはずなので、前漢初期に出現したとする日本語ウィキ(*)との大きな食い違いがなぜ起こっているのかは謎です。♪

* つぎの本を文献として上げている。武内1939、津田(左右吉)1946、金谷1999、宮崎・礪波2000、宮崎(未詳年)[以上岩波]。 狩野2001[ナツメ社]、荒川2007[三恵社]、吉田1984、緑川2007[以上明治書院]

♪ 我々数学系の人間は、それは結局成立や出現の〝定義〟の問題だろうと、大真面目に捉えつつも問題を交してしまうことがよくあります。

論語は紀元前3世紀末とすべきでした

銀様のご指摘を頂いてウィ繰りました。銀様は助六というより碩学とお呼びすべき方だった。

孔子(紀元前551年‐紀元前479年)自身は春秋時代に活躍したわけですが、論語の成立は前漢初期とされるから紀元前208年頃。

それが頭にあって、つい紀元前2世紀初頭とやってしまいましたが、マイナス方向に数えているから、紀元前3世紀末とすべきでした。

紙の発明まで3百年というのは、間違っては居ません。

一方で、論語成立が孔子没後270年というのも、考えてみると不思議です。

駱駝のスピード

※ 銀様 コメント拝聴

とりあえず駱駝について:

餌と水を充分に与えられたラクダは、1日に140kmのペースで3、4日も歩くことができる。運搬用のラクダは、150kgほどの荷物を載せて1日に25~50kmを歩く。

http://big_game.at.infoseek.co.jp/othermam/camel/camel.html より

シルクロードの移動に要する日数については、大外れではなかった。年代的検証は後で。

開会式のテーマ?

一度中国の歴史の教科書を見たが(中学程度だがそう全国民に高度教育を施すとも思えないので殆んどの国民の歴史の全知識に近いものと思われる)全体の3分の一が中共の成立の歴史であり、3分の一が抗日戦争であり、そして後の3分の一が蔡倫の紙の発明などつまり中国が偉大だと世界に誇れるものであり本来の殷周よりはじまる国の興亡などは最後の数頁、それも2-3の国に過ぎなかった。

つまりあの開会式のテーマは発明ではなく中国の歴史の全てであり自慢できるもの全てを表したと考えた方が正しいかもしれない。当然三大発明が西洋ルネッサンスのものという世界の認識を改めさせる意図がある事は間違いない。

中国人は歴史に無知であると同時に故意に教えられていない可能性もある。一度ドイツで超インテリ人二人に会ったことがあるが、(インテリであると同時に完全に西洋思想と一体化したために中国には帰れぬという運命を負った二人であったが)いろいろの話で李白、杜甫は大詩人という話の後にワシが白楽天の名を持ち出したところ超インテリの二人には全く知らぬ、聞いた事もないと言われた。

彼らと別れて多分白楽天は政治的な詩を書いたから中共指導者による政治的意図により抹殺されたのかとも思ったが以前ワシがちょっと出した長恨歌が悪いのか何ともいえないところがある。

ワシが半分そらんじて言える詩の存在も知らぬ国民が歴史を知るわけもなく、多くのあまり自慢にならない歴史は教えられることもなく、中国史を一番知らないのは漢字を知らない、つまり四書五経以来の資料も読めず中国歴史学が発生するはずもない西欧人を除いては中国人自身とも言える。

中国衰退の原因の一つというか最大のものが科挙以来古の文物ばかり学び一言一句をああだこうだと言うだけで新しいもの、西洋の文物科学を否定して世界に遅れを取ったことから考えると歴史否定もやむを得ぬか?

おっと見逃したが論語は春秋時代つまりBC5世紀ごろ。
隊商についてはカンシンの時代は戦乱、いつ殺されてもおかしくない。そこに全財産を持って歩く人間がいるか?
シルクロードは唐代と思っていたが秦漢に存在したとは初耳。一度暇があったら平凡社かブリタニカあたりで調べてみたいが?wikiはあてにならんよ?

開会式のテーマは〝発明〟

珍しくオリンピック開会式を観ていました。時差がちょうど具合が良かった。テーマは中国の発明でしたね。

紙、活版印刷、羅針盤の順。後「火薬」を入れれば中国の四大発明になるわけだが、さすがに火薬を取り上げることを遠慮したかと思って、ハタと気付きました。会場内外で繰り返された「大花火」。言うにや及ぶ。

勉強になったことを、ついでにネト繰ったことと合わせて書くと…、

●論語(紀元前2世紀初頭)は竹簡に書かれたのだった。紙の発明は2世紀初頭だから3百年も後。

なお蔡倫の紙の発明より前には、ほぼ同じ原料の絹屑から不織布を作る技術が実用化されていた。蔡倫は、ほかのさまざまな技術を「統合」したのだった。

●羅針盤の指針は、チリ蓮華みたいな形だった。「指南車」の発明(3世紀頃)が羅針盤の発明だと教わったように思うが、間違いでした。前者は磁石式だった。(後者は歯車式)

この発明の時期は分からないが、いずれにせよ羅針盤のお蔭で、

●15世紀初頭(1405-1433)に鄭和が7回の大航海を行った。無論欧州人の大航海時代よりずっと早い。コロンブスのアメリカ〝発見〟はご存知のとおり1492.

これを「海のシルクロード」として、その直前に出した陸のシルクロードと対比して見せていた。ウズベキスタンが入場したときは、それはシルクロードの中心に当っていたという解説を日本のアナウンサーがしていた。

後、鄭和も蔡倫も宦官だったんですね。もしかしたら象棋も実は宦官が発明したのかもしれません。麻雀は宮廷女官の遊びだったのだから、当然宦官の発明だったとろうと思って調べたら、なんと女官云々は「伝説」で、1850年頃、やはりいろいろなゲームを元に発明されたという説が或る程度有力になっているようです。

(次回は駱駝の隊商の速度)

シッツィン(3) もう一つの特徴 ―― 自由な初期配置

ゲームの規則としては、シッツィンには大きな特異性がある。それは初期配置は歩より他の駒は後ろとかいう常識的な条件の範囲で、先手が先に自駒の配置を決め、それに対して後手が、同様な制限の下で駒を配置する。それから先手が指し始めるというもの。

したがって先手が指し始める前に、チェスの数え方で10数手、日本将棋の数え方ではその倍だから、20数手から30手前後進んだ、序盤の定型の盤面になっている。

これはじつに高度なもので、チェスの「クイーンズ・ギャンビット」―「ニンゾ‐インディアン・ディフェンス」などに相当するものも選ばれる。

驚愕の事実である。チェスに酷似した高度な序盤がという意味ではない。それは一国のトップ・プレーヤー間では当然だろう。それよりも、隣接している国でありながら、共通の祖先を持つチェスがここまで違った発達をしたことがである。

このことは、日本の将棋を含め、地域間あるいは年代間での将棋の変貌が予想を越える割合で大きくなりうるものであることを改めて認識させる。

なお日本には昔子供の行軍将棋とか軍人将棋というものがあった。ネットで見ると、近年パソコン上で復活しているらしい。駒も発売されている。この場合は密集配置で、しかも裏返しに置くものだが、配置が自由な点が共通。

こちらのほうの起源はフランスのラタック(〝攻撃〟)というゲームだという。それはおそらく非常に新しい、せいぜいで200年足らず、のものなのであろうが、なにかチェス史に関係することでも出てくれば、そのときに記すことにしたい。

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